Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Pekka Väyrynen (2008), Usable Moral Principles in Vojko Strahovnik, Matjaz Potrc & Mark Norris Lance (eds.), Challenging Moral Particularism. Routledge

個別主義:道徳原理に従うべきではない、それは、道徳原理はわれわれが正しい行為を行うに際して悪影響を及ぼすから.

Väyrynenはこの個別主義的な主張に対して、彼が提案するヘッジがきいている原理は、われわれの行為を正しく指導する道徳原理であると主張する。

個別主義のための主張:

①理由の全体論からの議論:ある事実が果たす理由の役割は文脈によって異なる。このことを踏まえなければ、われわれは誤った判断をすることになる(Dancy 1993, p. 64)。

→この議論は無視できる。というのも、たとえ理由の全体論が真であったとしても、成り立っている道徳原理があると考えられるから。

②たとえ道徳的事実や道徳についての区別を明確にするために道徳原理が必要であったとしても、われわれが道徳についての決断を行うに際しては、道徳原理は不必要。

→この戦略も難しい。道徳原理は道徳についてのコミュニケーションに際して、ある程度の役割を果たすように思える。

③道徳原理に頼って道徳的な決定を下すことは、行為者が必要な敏感性を発揮することを妨げ、個々の事例について十分な検討を行うことを妨げる。

道徳原理が果たすべき適切な指導とは?→正しい行為を、正しい理由によって、行うための信頼のおける方法を提供すること。

信頼性?→その原理を使用する人の環境にあまり依存しない。ある程度の異なる可能世界において信頼のおけるものである必要がある(78)。ある世界や状況においてのみ信頼性のおけるような原理では、ここで問われているような信頼性は持たないということになる(「まず先に発砲せよ、そしてその後に質問をしろ」という原理など)。

正しい理由のため?→道徳には関係のない理由で行為することによって(罰をさけるため)、道徳的に正しい行いを行うことができるかもしれないが、それではこの原理は正しい行いをするために信頼のおけるものとはならない。その原理を受け入れることで、正しい理由で行為することが可能となるような原理でなければならない。

良心を持った人のみ?→道徳的に振舞おうという意思がない人にとっては役に立たないものであっても問題はない。ある程度の認知能力を持つものにとって有益であればよい。つまり、ある程度、込み入った原理であっても、正しくそれを使おうとする行為者にとってのみ、有益であればよい。

実践的思考への影響?→その原理が直接的に、もしくは間接的に、道徳的思考によい影響を与える。ここで言うところの良いとは、もちろん、道徳的に良い行いを行うために、という意味。カント的な定言名法は、それが思考されることにより、道徳的思考によい影響が与えられるものなのかもしれない。

一般主義のための論証:

(G1)もし道徳原理が正しく行為するための、信頼性のおける、そして現実的な、貢献をすることができるのであれば、一般主義は適切な道徳的指導を与えることができる。

(G2)道徳的に正しく行為しようとする行為者にとって、もしその行為者が真である道徳原理を受け入れることで、正しい道徳的理由への反応性を涵養することができるのであれば、道徳原理はその行為者が正しく行為するための貢献をすることになる。

(G3)どのような道徳的に正しく行為しようとする行為者にとっても、その行為者が真である道徳原理を受け入れることで、正しい道徳的理由への反応性(responsiveness)を涵養することができる。

(C1)すなわち、どのような(道徳的な良心を持つ)行為者であっても、その行為者が原理を受け入れることが正しい行為をすることに貢献するような方法が存在する(方法の内容は行為者によって異なる可能性があるが)。

(C2)すなわち、一般主義は適切な道徳的指導を提供することができる。

(G1)はこの論文の前提。(G2)と(G3)が擁護できるか否かが問題となる。

(G3)に関して:道徳原理の受け入れと理由への反応性

道徳的理由への反応性とは、理由への反応性一般からみた、特殊な事例。理由への反応性を持つことは、その理由に基づいて、何らかの信念や欲求、意図や経験を持つこと。このような理由への反応性は、様々な要因によって阻害されることがあるもの。バイアス、疲れ、注意散漫、うつ症状、能力の低下、など。

ここで議論されている傾向性は、de re読みであるべきで、de dicto読みであるべきではない。

道徳原理の受け入れの強度に度合いがあることと同様に、理由への反応度にも度合いがある。

道徳原理の受け入れによって、どのような反応度を得ることができるのか?

①道徳原理の受け入れによって、ある特定の道徳的信念を得ることになる。嘘をつくことは基本的には悪い、という原理を受けれいることは、嘘をつくという行為を認識した場合にその行為は悪いものだと判断すること。

②道徳的信念を持ち、そこから、その道徳的信念に沿った道徳的決定を下すようになる。嘘の原理を受けれいるということは、様々な状況において、嘘をつかないようにしようという決定を下すようになる。

③道徳的信念を持ち、そこから道徳的決定を下し、さらに、それに沿って実際に行為し、関係する動機的な、情的な要素(後悔の念など)も発動される。

道徳原理はある行為を正しいものにしたり悪いものにしたりする特徴を同定するものであるから、それらは行為者が何らかの考慮を道徳的理由とみなすことを保障する。このことから、①の考えに従うと、道徳原理を受け入れることは、道徳的理由に気がつく傾向性を持つということになる。他の2つの考えも、この道徳的理由への気づきを含んだものということになる。つまり、上で挙げた解釈のどれをとっても、行為者が道徳原理を受け入れることは、道徳的理由への反応度を獲得するということになる。(G3)は擁護されることになる。

道徳原理が行為者の実践推論において指導的な役割を果たすために必要なものは何かという問いに関する2つの問い

(1)強い考え:その原理に従いたいという欲求から道徳的決定が下され、道徳的決定を下す際に命題的態度の内容として明示的に表象されること(H.M. Smith 1988, pp. 90-92)

→この考えは強すぎる。道徳原理を受け入れることによって行為者が動機づけられるべきなのは、その原理が示す道徳的理由に関して気がつくことができるということ。

(2)弱い考え:明示的な推論を行う際に使うことができること。明示的な形で表象される必要はない。つまり、ある原理に基づいて行為することは、その原理について意識的な反省がなされていなくてもできるということ(O'Neil 1996, pp. 86-87, Garfield 2000, p. 191)。

→弱い考えの方が正当に見えるし、ここまでの議論において必要なのは弱い考え。

道徳原理の受け入れと動機の関係について:(G3)は道徳原理の受け入れは動機づけに十分であるという考えを想定してはいない。というのも、動機付けに十分であるという条件が必要かどうかは、そもそも道徳において動機付けをどれほど深刻にとらえるかによるから。

(G2)について:

考えられる反論:どのような原理であっても、その受け入れによって道徳的理由への反応性を誤ったかたちで涵養してしまうのではないか。(個別主義者の問題意識)

→たしかに、道徳的理由への反応性を誤った形で涵養する原理はある。それでは、次の問いは、全ての原理がそういうものであるかということ。もしそうでない原理があるのであれば、この問題は退けることができる。Väyrynenはそのような原理として「ヘッジされた原理」を提案する。

[One plausible assumption]: in ethics, when we judge C to be a reason for an act's being right or wrong, we should also be able to explain why C is the kind of reason it is. 

Substantive normative theories tend to provide such an explanatory work.

Ex: Concerning the wrongness of causing pain; it produces intrisically bad value, makes the victim worse off, it fails to exhibit respect which the victim merits, or the prohibition of causing pain cannot be reasonably rejected (p. 86)

Vayrynen calls this feature normative basis (bases). He thinks normative bases also provide an explanation of why certain feature of a situation functions as a reason in one context but not in another context.(p. 86)

Then, he argues a principle which has the following hedged structure can be compatible with the holism of reasons:

[HP] For any x, if x is F, then x is M in virtue of being F, provided that x instantiates the designated relation for F and M. (p. 87) 

F is a particular feature of a situation (such as causing pain) while M is supposed to be a thin moral concept. 

Then, the real question we need to ask is: by accepting such hedged moral principles, can morally committed agents be morally reliable persons? (namely, are hedged moral principles usable/useful moral principles?) 

Vayrynen says that by comitting to a hedged moral principle, one not only avoids particular wrong but can care more general moral ideal such as respecting other people (p. 88). Vayrynen explicitly says that even if one accepts a particular moral rule 'causing pain is wrong' out of a direct concern for not causing pain to others, such an agent would be a defective moral agent (p. 88). 

[??] Not sure why Vayrynen is entitled to say that such an agent is morally defective ... He says even if that agent believes that there is no normative basis which explains the wrongness of causing pain, the agent would be morally defective. 

Accepting a hedged moral principle requires grasping the relevant designated relations, and such grasping shapes one's responsiveness to moral reason (so the defence of (G2)). (p. 89)

Accepting a principle includes a ommitment to a following counterfactual: I wouldn't take x's being F as a reason for x's being M if x didn't instantiate the designated relation for F and M. (p. 89) 

An agent who does not have a full grasp of the principle can be still reliable because the agent can reliably pick up on morally relevant features in each context [an example of such a weak grasp of the hedged moral principle may be that morally relevant things are related somehow to wellbeing] (p.90). 

Hedged moral principles are different from more concrete rules such as 'killing is wrong' 'causing pain is wrong'. Holding the latter principles may lead us to systematic errors (p. 91). 

Accepting a principle goes beyond graspting an appropriate range of moral principles, and this is why accepting a principle enhances one's moral sensitivity to reasons (p. 93). 

A possible particularist response: the particularist strategy is better than the generalist strategy outlines here (the original claim was that generalism is wrong because by relying on moral principles we become morally unreliable agents) (pp. 94-95)

Vayrynen's response (or an independent objection) to particularism: the particularist does not provide any material (substantial?) explanation of how particularist guidance affects the agent's psychological make-up and how such effects contribute to the reliability of the strategy (p. 95). 

On this point, Dancy's narrativist epistemology is silent (p. 95). 

Vayrynen also discusses another argument against generalism which appeals to empirical data, a classic one is the one by Dworkin. Vayrynen's response is this: even if our moral judgement is driven by prototypes, schemas, or exemplars (not genral moral principles), this empirical finding does not undermine the generalist strategy which employs the idea of hedged moral principles. That is because the acceptance of hedged moral principles influences what sort of protopypes, schemas, or exemplars are relevant. 

Finally, Vayrynen attempts to respond to two challenges Holly-Smith raises against generalism. 

Judith Jarvis Thomson, The Trolley Problem (1985)

フットのトロッコ事例(1978):あなたはトロッコの運転手だったとしよう.このままいったら5人のたまたま居合わせた作業員をひき殺してしまう.トロッコのブレーキは壊れている.もう一方の線路にはこちらにもたまたまいた作業員が1人いる.もしそちらの方に行けば,5人の命を助けることはできるが,その1人は殺すことになる.

問い:この場合,1人の作業員がいる方にハンドルをきることは,道徳的に許容されるだろうか(morally permissible)?

トムソンが会った人は皆,このケースではハンドルを切ることは道徳的に許容されると答えた.人によっては,道徳的に許容されるのではなくむしろハンドルを切らねばならない(must)と言う人もいる.

外科医の事例(これもフットが使った事例):外科医であるあなたは5人の患者を診ている.今日,この患者はそれぞれの患部の移植手術を行わなければ,皆死んでしまう.そこに,健康診断で病院に来た若者に関するニュースが飛び込んでくる.この若者は,5人の患者の血液型にも合致しており,この若者を使って臓器移植をすれば,5人の患者は助かる.あなたはこの若者に手術をしてもいいかと聞いてみたが,若者は,「同情はしますが,それはできません」と答えた.

問い:この場合,1人の健康な若者を殺して5人の患者を助けることは道徳的に許されるのだろうか.

トムソンが会った人は皆,このケースは道徳的に許容されないと答えた.

フットの答え:

外科医の事例:「1人を殺すことは,5人を死ぬにまかせることよりも,悪い」,だから,この事例では1人の健康な人を殺すことは許されない.

ロッコ事例:「5人を殺すことは,1人を殺すことよりも悪い」,だから,この事例では1人を殺して5人を助けることは許容される.

トムソンはこの説明には一定の魅力があるが,ことはそれほど簡単ではないと言う.トムソンは以下のような傍観者の事例を提示する.

傍観者の事例:あなたは線路の横を歩いている.あなたはスイッチを作動させてトロッコの行く先を決めることができる.ドライバーは何もできない.

ロッコ事例と傍観者の事例の違い:①トロッコの運転手はトロッコに関して責任がある.一方で,傍観者はたまたま居合わせただけで,何の責任もない.②トロッコの運転手は何もしなければ自らの手で5人を殺してしまう.しかし,傍観者は何もしなくても自分では何もしない.

しかしながら,このような場合,普通の人ならば状況に介入して,責任を持とうとするだろう.たしかに,このように責任を持つことは,リスクをおかすことになるわけだが.たとえば,5人がマフィアで1人が普通の市民であった場合,判断は微妙になってくる.

トムソンの直観:傍観者はこのケースで介入することは許される.道徳が介入を要求するかどうかまではわからない.しかし,少なくとも介入は許容されるはず.であるならば,フットの提案に問題が生じる.もし傍観者が介入を始めたならば,彼はトロッコの行く先を変えるわけだから,彼は作業員を殺すことになる.一方で,もし介入しないで5人が死んでしまったとしても,傍観者が積極的に殺したわけではなく,5人を死ぬに任せただけである.ということは,彼の選択は,1人を殺すか,5人を死ぬにまかせるかである.トムソンはこの場合は許容されると考えている.しかしフットが提示した外科医の事例で働く原理によると,これは許されない事例ということになる.つまり,傍観者は介入することが許されないということになる(1398).

外科医の事例に少し変化を与えてみる.

外科医の失敗の事例:5人の患者が病気を持ったのは,外科医の不手際によるものだった.相当疲れていた外科医は,ある日,病院に来ていた5人に誤った薬を処方してしまう.その結果,5人は病気を持つにいたり,死の直前まで病気が進行してしまった.つまり,もし5人が死んでしまった場合,外科医が5人を殺したことになってしまう.

問い:健康な1人を殺して殺してしまうはずの5人を助けるべきか?

トムソンの答え:もちろん,5人を殺すことは許されない.しかしそうなると,1人を殺すことよりも5人を殺すことの方が悪い,という原理にも疑義が向けられることになってしまう.どう考えればよいのか?(1400)

①原理は正しい,この場合,外科医は1人を殺すべき.

②原理はこの場合外科医は1人を殺すべきということを含まない.

トムソンは②を選択.原理は行為の価値について述べているが,このことは,何をするべきかという規範的な含みを持たない(ということ??)

トムソンは原理(5人を殺すことは1人を殺すことよりも悪い)に次のような修正を加える.

もしある人が,今,ここで,5人を殺すために何かをすることと,今,ここで,1人を殺すために何かをすることを選ばなければならないとすると,この人は後者を選ぶべきである.(1400)

トムソンはこの原理は外科医の失敗の事例(やその強化版の悪い外科医の事例)において外科医は手術をすることを命じないと考えている.というのも,この原理は今,ここで,の話であり,外科医の選択は過去の出来事(誤って,もしくは意図的に,医療ミスを起こして死因を作った)と,現在の出来事(健康な人は殺すこと)であるから.

トムソンがトロッコ問題(the trolley problem)と呼ぶのは,なぜ傍観者は5人を助けるために介入することは許されるが,一方で,外科医は1人を殺すことが許されないのか,という問い(1401).

カント的な考え:人間性を持つ存在を単なる手段として扱ってはならない.

この考えから行くと,外科医の事例では若者は5人を助けるために単なる手段とされている.しかし,傍観者の事例では,犠牲になる1人は手段となっているわけではない.

 たしかにこの答えはある程度の確からしさを持つかもしれない.しかしトムソンは,人を単に手段として扱うとはどういうことか,人を単に手段として使うとはどういうことか,そして,なぜそれは悪いことなのか,答えることは簡単ではないと考えている.

たしかに,傍観者の事例と外科医の事例を比較してみると,犠牲になる1人の使われ方が違うということがわかる.このことから,1人の使われ方という観点から考えることは,基本的には正しいとトムソンは考える.しかしこれだけでは過度に単純化された答えしたでないとトムソンは主張する.

ループ事例:傍観者の事例では,5人がいる線路と1人がいる線路はその先つながっており,交わることはなかった.しかし,この事例では,5人がいる線路と1人がいる線路は辿っていくとつながっており,円状のなっている.5人が轢かれた場合,それによって列車はとまる.だから1人は助かる.一方で,1人の方は恰幅がよく,恰幅がよいからそちらに列車がいったら,列車は1人を殺してとまる(1402-3).

トムソンの直観:多少のためらいはあるかもしれないが,この場合でも,1人を犠牲にして5人を助けることは許容される.

ただ,この事例では,恰幅のよい人物は使われているような気がする.それによって5人は救われているわけだから.

→このような事例を考えると,カント的な考えを使ってこれらの事例を解決することは困難であるということになる.

傍観者の事例と外科医の事例の違い:傍観者の事例は,既に5人にとって脅威となっていたものを1人にとっての脅威に変えるものだった.外科医の事例はこのような特徴はない.また,傍観者の行為は犠牲になる1人のどのような権利の侵害も含んでいない(the bystander does not do that by means which themselves constitute an infringement of any right of the one's).(1403)

このような仕方で,トムソンは「権利」に訴えて,この問題を解決しようと試みる.ちなみに,トムソンは他者を単に手段として扱うことの悪さを説明するためにも,権利に訴えざるをえないと考えている(1404f).

ドゥオーキンの考えの検討:権利は功利よりも常に優る(Rights trump utilities).もしある権利の侵害があった場合,その権利の侵害は,たとえどのような功利があったとしても,許容されない.

ここから出てくる解決:傍観者の事例において,1人を犠牲にすることが許されるのは,それによって5人の幸福が増進され,かつ,1人の権利は侵害されていない,から.

しかし,このような方針もそれほど簡単ではない.傍観者の事例で本当に犠牲になる1人の権利を侵害していないのだろうか.権利が侵害されないとはどういうことか.

権利の放棄に訴える方法(1405):労働者は線路上で働くことは危険であると知っていたはず.それにも関わらず働くという選択を行ったことは,彼らがここで関係する権利を放棄したということ.だから,1人が犠牲になる場面でも,権利の侵害はない.

トムソンはこのような答えはあまり魅力的ではないと考える.労働者は轢かれる可能性を受け入れるというような同意は与えていないはず.

トムソンの考察:傍観者は犠牲になる1人の権利(生存権,right to life)を侵害しているし,彼に対しては悪いことをしている.しかし,これは許容されるものだ,と考えることができるかもしれない.しかしながら,これは道徳が要求することではない.われわれがこの事例でかなりためらいを感じるのは,この事例は道徳的に許容されるものだが,やはり犠牲になる1人の権利を侵害するものであり,かつ,われわれの行為はこの1人に対しては悪い行いであるから(1406).→この答えはBernard WilliamsやRuth Marcusによって提案されているもの.

傍観者の事例で1人を犠牲にすることが許されるのは,1人を犠牲にすることで5人の福利を増進することができるからだけではない.彼は,何もしなければ避けることができない死の数を最小化することができた(1人を犠牲にすることで).つまり,もともとあった脅威の被害を最小限にとどめたということ.彼は何か新たな脅威を自ら積極的に作り出したわけではない.この要素が重要.(1408)

→このことをトムソンは分配的免除(distributive exemption)と呼んでいる.

⇒ここから出てくるトムソンの結論:われわれは次のような場合,既に5人を脅威にさらしているものをそのままにしなければならないという道徳的義務を課せられてはいない,即ち,その脅威を1人に向けられるものに変えることができ,それによってその1人の権利を侵害することがないような場合.(1409)

太った男の事例:橋の上から太った男を突き落せば,暴走する列車を止めることができる.

この事例については多くの人が道徳的に認められないと言う.なぜか?トムソンは,この事例は太った男の権利を侵害するものであるから多くの人は認められないと考えているという.

 

Richard Amesbury (2016), 'Fideism' Stanford Encyclopedia of Philosophy

Plantiga(1983, 'Reason and Belief in God')によるfideismの定義:哲学的、もしくは、宗教的真理を得るために、理性ではなく、信仰のみに訴えること

ポイント:①信仰主義者は「真理」探求のために信仰にのみ訴えるべき場面があると主張していること。②この定義は形式的なものであり、そん内実は理性、信仰が何かということによってくる。

信仰主義の歴史:

特にプロテスタントの伝統においては、人間の知性は罪(失楽園)によって害されており、信仰についての真理について、知性だけに頼ることは間違いであるとする思想があった。ルターやカルヴィンらはこのような考えから信仰の優先性を主張した。一方で、カトリックの伝統においてはむしろ理性によって神の存在を証明しようとする動きもあり、信仰主義を敵視する傾向がある。カントは神についての信念は、理性によって擁護できるものではなく(神の存在証明のための諸論証をカントは否定している)、実践的な過程(postulate of practical)

現在、信仰主義という言葉を代表すると考えられている哲学者たち:パスカルキルケゴール、ジェイムズ、ウィトゲンシュタイン

パスカル:信仰の対象は無限で理解を超えたものであるから、通常の正当化の方法は不適切。だから、神についての信念は信仰によるべき。神の存在証明なるものは、哲学者の神であり、信仰上の神ではない。

ただ、神についての信仰を持つことは、実践的な意味では合理的であると、パスカルは考える→パスカルのかけ

パスカルのかけには様々な問題があるが(信念についての主意主義の問題、非キリスト教的な神の存在を意識していないなど)、「宗教を信じるべき」から「宗教的な生活を営むべき」という主張に変えて現代版のパスカル的な議論を擁護する動きもある(Golding 2003)。

キルケゴール:通常の信念と信仰の違い。後者は神に対する情熱的なコミットメントであり、何らかの決定を要求するようなもの。前者はそのようなものではない。もし神についての証拠を持ってしまった場合、そのような証拠は我々の宗教的な信仰を破壊してしまう。自分の人生を変えないような信仰は、神への信仰ではない。現代においてこのようなアプローチを擁護する動きとして(Stradberg 2011)などがある。

キルケゴールは理性と信仰が両立しないものとは考えていなかった。哲学的な思考は信仰の内容を明らかにする役割を持つと考えていた。また、理性はナンセンスを知るために必要。知性を使うことによって自らの知性上の限界を理解することができ、どのような場面で信仰のみに訴えるべきかわかる。

Mackieの反論:このような信仰主義は知性上のロシアンルーレットのようなもの。知性的に無責任。

ジェイムズ:クリフォードとの信念の倫理に関する論争。証拠がなくても信じることが認められる場面を議論する中で、一種の信仰主義を擁護しようとした。

他者との関わり:証拠がなくてもある程度他者が信頼の置ける人だと信じる必要がある。そうでなければ人間関係はできない。つまり、十分な証拠がなくても信じるべき時があるということ。

宗教のケース:宗教ケースも上のケースと類似的。宗教を信じることは、信じないという懐疑主義よりも、不合理だとは言えない。

ジェイムズに関しても信念に関する主意主義の問題がつきまとう。

*ジェイムズの主張は、実践的な理由によって認識的な理由を退けられるというものではなく、たとえクルフォードが言うような十分な証拠がなかったとしてもわれわれは何かを信じる権原があると言うこと。

ウィトゲンシュタイニアンによる信仰主義:NielsenとPhillipsの論争

近年の信仰主義の擁護:

EvansのFaith Beyond Reason:証拠によって決定的なことが言えない場面においては、信仰に訴えて信念を形成することは、認識論的に許容される。

John BishopのBelieving by Faith:合理的な、経験主義的な証拠という観点から見ても、神がいるという仮説と神がいないという仮説はどちらも成り立ちうる。このような状況においては、たとえ証拠という観点から決定的なことが言えなかったとしても、実践理性において神の存在を前提にすることは道徳的に容認される。

信仰主義を擁護する理由:理性に限界がある場面があり、そのような場面では信仰の方が優れた認識的価値を持つから

考えられる反論:もし理性に限界がなければ、このような形で信仰主義を擁護することは困難(Meillassoux 2008)。

 

Harry Frankfurt (1969), Alternate possibilities and moral responsibility

(いうまでもなく、この論文は別行為可能説への古典的反論。だいぶ前に勉強したのだが、授業の関係であらためて読むことになり、内容の確認のために再び勉強)

(道徳的責任についての)別行為可能説:ある行為がそれを為した人の責任であるのは,その人がその行為以外の他の行為を行うことができた場合.

別行為可能説の魅力:強制や病気などによる行為について,その責任を問わないですむ.何かを強制的に行わされた場合,われわれはその行為の責任を通常問われない.これは,他に選択肢がなかったという理由に起因しているように見える.

ただ,強制的にある行為を強いられた,その行為の他に選択肢がなかった,といっても,その行為がどのようになされたかは,状況によってかなり異なってくる.

1.強制が無視された場合→強制はないに等しいから,自分で行為したということになる.だから,道徳的責任は問われる.

2.強制力によって過去の選択を忘れてしまうぐらい,恐怖におののいている場合.過去の選択が行為において何の役割も果たしていない場合.→この場合は道徳的責任を免れることができるとフランクファートは言う.

3.強制はあるが,その強制の前に決めていた行為を行った場合→この場合は,強制ではなく,自らの選択が行為の重要な役割を果たしているから,道徳的責任を問うことができる.

→強制的に行為を強いられることは,それ以外の他の行為の可能性がないことと同じことではないということ.つまり,それ以外の行為の可能性がなかったとしても,その行為について完全な責任を負うこともありえるということ.

4.ある他人によって脳の状態をコントロールされて,その他人が望むように行為することを人為的に決められている場合.ところが,この他者が何も介在することなく,コントロールされている人が自らの意思で行為を決めた場合→この場合でも,他の行為の可能性はなかったわけだが,行為の責任は問われるように思える.

むしろ重要なことは,もしその人物がその行為を行うことができたならば,その行為を行うか否か,ということであるように思える.

さらに,重要なことは,その行為がなぜ行われたのか,ということ.その行為がその行為者の意思によるものであれば,責任を問うことができるし,そうでないならば,責任を問うことはできないということ.

別行為可能性説は次のような行為の理由と結びついた説に改定されるべき?:ある行為は,それ以外の他の行為を行うことができなったという理由で行われた場合,その行為の責任を問うことはできない.

→フランクファートはこの改定版の説も否定する.このような理由で責任の免除が行われる際,われわれはこの原理の字義的な意味以上のものを想定する.たとえば,この行為は私が本当に行いたかったことではなかった,など.

フランクファート自身の提案:ある行為は,もしその行為が他の行為を行うことができなかったという理由のみによってなされた場合,その行為の責任を免じることができる.

フランクファートはこの原理は決定論とも両立するという.たとえある行為以外に可能な行為がなかったとしても,もし行為者はその行為を本当に望んで行ったのであれば,われわれはその行為者の責任を問うことができるように思える.つまり,決定論と道徳的責任は両立するということ.

 

 

 

Stathis Psillos Causation and Explanation (2002) Chapter 5 The regularity view of laws

ヒューム的な因果説から導き出されること:自然界に規則性があるということ。あるタイプの出来事とあるタイプの出来事の間に一定の規則性が存在するということ (137)。

規則性説の問題点:全ての規則性が因果的な規則性ではないはず。このことから考えると、規則性説を擁護するためには、どのような規則性が因果的な規則性なのか、明確にする必要があるということになる。

一つの戦略:因果の法則は自然の法則(the laws of nature)であると主張すること。自然の法則と偶然的に真である一般化

論争の整理:自然法が規則性であるか否かという問題。因果の関係が異なるタイプの出来事の間の規則性であるかという問題。両者は独立した問題。偶然の規則性と偶然でない規則性を区別するにあたり、非ヒューム的な考えに訴えざるを得なくなるか否かが論争のポイントの一つ。

ヒューム主義が訴えられないもの:自然の中に存在する必然関係と偶然関係の区別。前者を否定しているから、前者に訴えて後者と区別することができない。

ヒューム主義者による法則の解釈:ある一定の重力の下に置かれていた場合、鉄は熱すると膨張する→この世界には、もし鉄が熱せられたら、その鉄は膨張するという規則性がある。だが、ここに必然性はない。

つまり、ヒューム主義者は法則が必然であると主張することができない。だが、たまたま成り立っている偶然と法則の違いはあるように思える。→法則とは規則性+何か

単純な説:全てのFsはGsであるは法則であるのは全てのFsがGsでありかつその場合のみ(論理実証主義者)。

問題点:次の二つの文はどちらも真であり、上の定式を満たしている。しかし、一方のみが法則のように見える。

「ロンドンにある全ての飲み屋では生ビールを提供する」「全ての鉄は電気を伝える」、ただ、両者の間にはかなり多くの差異があるように思える、前者はある一地域のことだけを指しているが、後者は全ての鉄を問題にしていること、後者は自然種をさしているが後者はそうではないこと、など(140)。

これらの考慮を入れたものを自然法とすることも難しい。自然法と思われるものの中には限られた範囲のみで成り立っているものもある。この銀河系の星の動きについての法則など(ケプラーの第一法則)(140)。また、これらを満たしたとしても、自然の法則とは呼べないようなものもある。全ての水素原子はある一定の質量よりも少ない。これは上記の条件を満たしてはいるが、自然の法則とはいえないだろう。

 認論的な特徴づけ(141):適切な帰納的推論において扱うことができるようなもの。単にこの規則性を成り立たせるような例があるということではなく、この一般化が科学の演繹的な体系の一部として機能を果たしているような場合。

例:「全てのヒトはいつかは死ぬ」→実際にこれまでに見られたヒトが死んでいるだけでは足りない。たとえばこれが、「全ての動物はいつかは死ぬ」「ヒトは動物の一種である」などの、関連する科学的な規則の一般化と関連している場合、自然の法則と呼ぶことができる。もしくは、その一般的な法則を使ってさらなる他の知識を知ろうと意志することができるようなもの(Ayer, p. 142)。それが予測に使われる場合、法則と呼ぶことができる(Goodman, p. 142)。

認識的な特徴づけの問題:あまりにも主観的すぎる?ニュートンの第一法(全ての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続ける)のような、実際にこの世界で起こらないような、そして、それが予測に使われないようなものを、法則とみなすことができなくなってしまう。

Goodmanによる反論(p. 144):まだ検証されていないエメラルドについて、grueを使うことはできない。一方で、自然種のタームであるgreenはプロジェクタブル。

様相モデル:自然の法則は現に成り立っている事柄に関するだけのものではない。まだ成り立っていないものについても何らかの情報を提供するようなもの(p. 145)。→自然の法則は反事実条件文を支持するが、たんなる偶然の規則性はそれができない。「もしこの鉄が熱せられたら、この鉄は膨張するだろう」は真であるように思える一方、「もしこのりんごがくだものかごにいれられていたならば、このりんごは熟れたものになっていただろう」が真になるとは思えない。

様相モデルを擁護するためには、反事実条件文の意味論を持たねばならない。だが、法則という概念に訴えることなくこのことを達成することは難問。

web of laws アプローチ:ある規則性が法則であるのは、それが整合的な規則性の集合に含まれる場合。その整合的な規則性の集合はある一定の説明力(単純性など)を持っている必要がある(149)。→最終的にはわれわれの認識的な状況に依拠した形で法則を理解することになってしまう?法則は世界に存在しているものではない?(152)反事実条件文を真にするものは世界に存在する法則であり規則性が他の規則性との間に持つ関係ではないのではないか?(156)

 

 

 

David Copp, Rationality and Moral Authority (2015) in Oxford Studies in Metaethics, vol. 10

合理性の教理(the Rationality Doctrine RD):道徳が規範的であるかどうかは、道徳と合理性の間に何らかの関係がある場合のみ

Copp:RDの一つの形態である「基本的な関係性のテーゼ:the Basic Linkage Thesis(BLT)」を退ける。このことにより、RDにも疑義を向ける。

RDの魅力:もし道徳の規範性と合理性に何の関係もないのであれば、合理的な人間に対して道徳は権威も持たないということになってしまうが、それでは、道徳そのものがどのような重要な意味でも規範性を持たないものになってしまう。道徳を無視しても合理的であれるか否かということ。

もしRDが否定されてしまうと、そもそも道徳が何の規範性を持たなくなってしまう。Gauthier (1986, pp. 1-2), Smith (1994, p. 65), Mackie (1977, pp. 29-30)など。

Coppの自然主義的な説は、このような考えに訴えることで、批判されてきた。もし自然主義が正しい説であったとすると、合理性の要求として道徳的であることが求められないということになってしまい、道徳の規範性が失われてしまう(135)。

CoppはRDを形而上学的な基礎づけの関係として理解している。即ち、道徳が規範的であるのは、道徳が持つ規範的な権威が道徳と合理性の関係によって基礎づけられている場合のみ、というい考えとしてRDを理解している(136)。

RDに反対する立場:

Primitivism:道徳の規範性はそれ以外のものに説明されるものではない。

Reductionism:道徳の規範性は非自然的な事実に訴えることなく説明することができる。

Non-rationalistic reductivism:(場合によっては合理性の規範性をも説明する)根源的な規範性によって、道徳の規範性は説明される。

Coppが注目する重要な前提:道徳的でないことが重要な失敗(significant failure)であるのは、それが実践合理性から見た時に失敗だった場合のみ(139)

Coppの問題意識:そもそもこのような論争が行われている時に、哲学者が規範性や合理性という名前で呼ばれる同じ概念について語っているのか、疑問(139)。

RDはトリビアルな真理?→規範的な要求は実践合理性の要求の1つであるならば、RDはトリビアルに真であるということになる。これは概念的な真理であると考える人もいる。

このようなトリビアルな真理ではない、実質的な主張としてのRDの理解の模索。

規範性を理由によって理解する?

規範性を「べき」によって理解する?

規範性を欲求や動機に還元する?

規範性を理由や「べき」によって理解しようとしても、規範的でない理由や「べき」の事例があるように思えてくる(Foot style etiquette cases)。そうなると、規範的である理由は、合理性と関係があるもの、と言わざるを得なくなるかもしれない。

規範性の分析は難しい。そもそも、規範性は分析不可能なものという考えもある。とりあえず、縛り(bindingness)や、規範的であることに失敗することは、それ自体で問題のあること(independently worrisome)という考えを想定して、議論を進めていく(142)。

合理性について:

能力としての合理性(the competence sense):行為者が合理的であるのは、行為者が自ら熟慮し、異なる理由を比べ、そして理由によって行為できる能力がある場合。

性能としての合理性(the performance sense):能力としての合理性を備えた行為者の活動が関係する基準に合致している場合。

能力としての合理性を持っている場合でも、その意味での合理性が要求するように行為できないという意味で、パフォーマンスの基準にあわない活動しかできないという場合もある。

このような合理性についての考えによってRDを理解する?→これら二つの合理性を満たしていても、合理的でない場合も考えられる。失礼なチェスプレイヤーの事例。失礼な態度をとっているチェスプレイヤーであっても、2つの意味で十全に合理的であるとも考えられる(143)。?? 

性能としての合理性を、合理的なperformanceという観点から理解することで、RDが実質的な主張として理解することができる。

 ただ、そのように言っても、どのような行為が合理的であるか、相当意見が分かれる。エゴイストは、最も合理的な行為は、自らの欲求が一番満たされるように行為することだと言うかもしれないし、このような合理性の考えに反対する人もいる(カント主義者は定言命法に従うことが最も合理的であると言うだろう)。エゴイストはカント主義者に同意して、道徳的である要求が課せられているとは考えるかもしれないが、それは道徳の要求であり、合理性の要求ではないと主張するだろう。

Shafer-Landau(2003, p. 168)やParfit (2011 I, 56)の主張を参考にして合理性を思慮深い(sensible)、理性的(reasonable)という考えによって理解することに一応する。

BLTについて(146):

BLTの内実:必然的に、行為者がcという状況下で道徳的にφする必要があるのは、行為者がφする合理性の要求がある時、もしくは、cにおいてφするように動機づけられている場合のみである。

BLTによって、次のようにwhy be moralの問いが答えられる→われわれが道徳的であるべきなのは、それが実践合理性の要請であるから。

上のBLTは、道徳的でないということは、非合理的である、ということは含意していない。道徳について知らない場合は、合理性の観点からの失敗はない。また、このBLTによると、道徳以外の他の事柄に考慮した結果、道徳的でないことが非合理的であるということにはならない場合も考えられるというのがBLTの内実。

行為の理由についても、合理的な行為者がそれを考慮にいれるということで、取り込める(147)。

CoppによるBLTへの反論(148~)

BLTを擁護する動機:①RDが真であると考えている人たちは、BLTによってそれを支持しようという動機がある。②道徳の動機と合理性の関係を重視する場合、BLTは魅力的(Smith 2010, pp 134-138)。

Coppによる2つの反論

①道徳によって要求されていることと、合理性の要求は、直観的に、全く別物のように思える。道徳の要求は、問題となっている行為がどのような意義を持つのかに依っているはずであり、それがどのように合理的であるのかということには関係がないように思える。

→Smithの応答。道徳についての探究を行うことは、合理性についての探究でもある。虐待が禁じられるべきだという結論にいたる道徳の探究は、合理性の探究でもある(2010)。

②道徳的であろうとしなくてもそれが非合理的でない事例が多くある。アリスの事例。他者の意見を誤って表現してしまったことで、そのことについて誤らないければならないという道徳的な要求が課されている。しかし、もし誤ってしまうと、彼女自身は大変につらい恥をかくことになるし、自尊心を深く傷つけられることになる。また、彼女の職場での立場も非常に悪いものになる。そのため、彼女は誤ろうという動機を持っていない。しかしこのことは、彼女が非合理的であることを示しているとはどうしても思えない。

そもそもなぜRDが重要視されるのか。それは、RDによって道徳の規範性を説明することができそうだから。だが、Coppは道徳の規範性に懐疑的でない理論の間にも論争があり、そのような状況においてはRDが果たす役割はそれほど大きくはない(RDに訴えなくても道徳の規範性を説明できる可能性があるから)と主張する(153)。

 

 

勇敢さに関する考え

勇敢さは他の徳と比べて特殊であるとの考え。それは、他の悪徳を有している人間でも、勇敢さについては持ち合わせることができるように思えるから(『プロタゴラス』359b)

勇敢な人間はどのようなものを恐れるべきかわかっている人、つまり、一種の知識を持った人であるとの考え。逆に、臆病な人は、恐れるべきものに関して無知である人(『プロタゴラス』359a-360d)

『ラケス』でも、恐れるものについての知識が勇敢さの十分条件だという話がある(194e11-195a1, 196d1-2, Irwin 1995, p. 40)。ただ、『ラケス』では勇敢さを耐えるという観点から考えてもいる(193e8~194a5)。『ラケス』についての解釈として、耐えるという能力が勇敢さの定義に必要なのか、議論がわかれる(Irwin 1995, p. 360)。

『国家』では、知識だけではなく、魂のappetitive partも、勇敢さには必要であると考えているように見える(430a6-b2, Irwin 1995, p. 226)。