Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Richard Amesbury (2016), 'Fideism' Stanford Encyclopedia of Philosophy

Plantiga(1983, 'Reason and Belief in God')によるfideismの定義:哲学的、もしくは、宗教的真理を得るために、理性ではなく、信仰のみに訴えること

ポイント:①信仰主義者は「真理」探求のために信仰にのみ訴えるべき場面があると主張していること。②この定義は形式的なものであり、そん内実は理性、信仰が何かということによってくる。

信仰主義の歴史:

特にプロテスタントの伝統においては、人間の知性は罪(失楽園)によって害されており、信仰についての真理について、知性だけに頼ることは間違いであるとする思想があった。ルターやカルヴィンらはこのような考えから信仰の優先性を主張した。一方で、カトリックの伝統においてはむしろ理性によって神の存在を証明しようとする動きもあり、信仰主義を敵視する傾向がある。カントは神についての信念は、理性によって擁護できるものではなく(神の存在証明のための諸論証をカントは否定している)、実践的な過程(postulate of practical)

現在、信仰主義という言葉を代表すると考えられている哲学者たち:パスカルキルケゴール、ジェイムズ、ウィトゲンシュタイン

パスカル:信仰の対象は無限で理解を超えたものであるから、通常の正当化の方法は不適切。だから、神についての信念は信仰によるべき。神の存在証明なるものは、哲学者の神であり、信仰上の神ではない。

ただ、神についての信仰を持つことは、実践的な意味では合理的であると、パスカルは考える→パスカルのかけ

パスカルのかけには様々な問題があるが(信念についての主意主義の問題、非キリスト教的な神の存在を意識していないなど)、「宗教を信じるべき」から「宗教的な生活を営むべき」という主張に変えて現代版のパスカル的な議論を擁護する動きもある(Golding 2003)。

キルケゴール:通常の信念と信仰の違い。後者は神に対する情熱的なコミットメントであり、何らかの決定を要求するようなもの。前者はそのようなものではない。もし神についての証拠を持ってしまった場合、そのような証拠は我々の宗教的な信仰を破壊してしまう。自分の人生を変えないような信仰は、神への信仰ではない。現代においてこのようなアプローチを擁護する動きとして(Stradberg 2011)などがある。

キルケゴールは理性と信仰が両立しないものとは考えていなかった。哲学的な思考は信仰の内容を明らかにする役割を持つと考えていた。また、理性はナンセンスを知るために必要。知性を使うことによって自らの知性上の限界を理解することができ、どのような場面で信仰のみに訴えるべきかわかる。

Mackieの反論:このような信仰主義は知性上のロシアンルーレットのようなもの。知性的に無責任。

ジェイムズ:クリフォードとの信念の倫理に関する論争。証拠がなくても信じることが認められる場面を議論する中で、一種の信仰主義を擁護しようとした。

他者との関わり:証拠がなくてもある程度他者が信頼の置ける人だと信じる必要がある。そうでなければ人間関係はできない。つまり、十分な証拠がなくても信じるべき時があるということ。

宗教のケース:宗教ケースも上のケースと類似的。宗教を信じることは、信じないという懐疑主義よりも、不合理だとは言えない。

ジェイムズに関しても信念に関する主意主義の問題がつきまとう。

*ジェイムズの主張は、実践的な理由によって認識的な理由を退けられるというものではなく、たとえクルフォードが言うような十分な証拠がなかったとしてもわれわれは何かを信じる権原があると言うこと。

ウィトゲンシュタイニアンによる信仰主義:NielsenとPhillipsの論争

近年の信仰主義の擁護:

EvansのFaith Beyond Reason:証拠によって決定的なことが言えない場面においては、信仰に訴えて信念を形成することは、認識論的に許容される。

John BishopのBelieving by Faith:合理的な、経験主義的な証拠という観点から見ても、神がいるという仮説と神がいないという仮説はどちらも成り立ちうる。このような状況においては、たとえ証拠という観点から決定的なことが言えなかったとしても、実践理性において神の存在を前提にすることは道徳的に容認される。

信仰主義を擁護する理由:理性に限界がある場面があり、そのような場面では信仰の方が優れた認識的価値を持つから

考えられる反論:もし理性に限界がなければ、このような形で信仰主義を擁護することは困難(Meillassoux 2008)。

 

Harry Frankfurt (1969), Alternate possibilities and moral responsibility

(いうまでもなく、この論文は別行為可能説への古典的反論。だいぶ前に勉強したのだが、授業の関係であらためて読むことになり、内容の確認のために再び勉強)

(道徳的責任についての)別行為可能説:ある行為がそれを為した人の責任であるのは,その人がその行為以外の他の行為を行うことができた場合.

別行為可能説の魅力:強制や病気などによる行為について,その責任を問わないですむ.何かを強制的に行わされた場合,われわれはその行為の責任を通常問われない.これは,他に選択肢がなかったという理由に起因しているように見える.

ただ,強制的にある行為を強いられた,その行為の他に選択肢がなかった,といっても,その行為がどのようになされたかは,状況によってかなり異なってくる.

1.強制が無視された場合→強制はないに等しいから,自分で行為したということになる.だから,道徳的責任は問われる.

2.強制力によって過去の選択を忘れてしまうぐらい,恐怖におののいている場合.過去の選択が行為において何の役割も果たしていない場合.→この場合は道徳的責任を免れることができるとフランクファートは言う.

3.強制はあるが,その強制の前に決めていた行為を行った場合→この場合は,強制ではなく,自らの選択が行為の重要な役割を果たしているから,道徳的責任を問うことができる.

→強制的に行為を強いられることは,それ以外の他の行為の可能性がないことと同じことではないということ.つまり,それ以外の行為の可能性がなかったとしても,その行為について完全な責任を負うこともありえるということ.

4.ある他人によって脳の状態をコントロールされて,その他人が望むように行為することを人為的に決められている場合.ところが,この他者が何も介在することなく,コントロールされている人が自らの意思で行為を決めた場合→この場合でも,他の行為の可能性はなかったわけだが,行為の責任は問われるように思える.

むしろ重要なことは,もしその人物がその行為を行うことができたならば,その行為を行うか否か,ということであるように思える.

さらに,重要なことは,その行為がなぜ行われたのか,ということ.その行為がその行為者の意思によるものであれば,責任を問うことができるし,そうでないならば,責任を問うことはできないということ.

別行為可能性説は次のような行為の理由と結びついた説に改定されるべき?:ある行為は,それ以外の他の行為を行うことができなったという理由で行われた場合,その行為の責任を問うことはできない.

→フランクファートはこの改定版の説も否定する.このような理由で責任の免除が行われる際,われわれはこの原理の字義的な意味以上のものを想定する.たとえば,この行為は私が本当に行いたかったことではなかった,など.

フランクファート自身の提案:ある行為は,もしその行為が他の行為を行うことができなかったという理由のみによってなされた場合,その行為の責任を免じることができる.

フランクファートはこの原理は決定論とも両立するという.たとえある行為以外に可能な行為がなかったとしても,もし行為者はその行為を本当に望んで行ったのであれば,われわれはその行為者の責任を問うことができるように思える.つまり,決定論と道徳的責任は両立するということ.

 

 

 

Stathis Psillos Causation and Explanation (2002) Chapter 5 The regularity view of laws

ヒューム的な因果説から導き出されること:自然界に規則性があるということ。あるタイプの出来事とあるタイプの出来事の間に一定の規則性が存在するということ (137)。

規則性説の問題点:全ての規則性が因果的な規則性ではないはず。このことから考えると、規則性説を擁護するためには、どのような規則性が因果的な規則性なのか、明確にする必要があるということになる。

一つの戦略:因果の法則は自然の法則(the laws of nature)であると主張すること。自然の法則と偶然的に真である一般化

論争の整理:自然法が規則性であるか否かという問題。因果の関係が異なるタイプの出来事の間の規則性であるかという問題。両者は独立した問題。偶然の規則性と偶然でない規則性を区別するにあたり、非ヒューム的な考えに訴えざるを得なくなるか否かが論争のポイントの一つ。

ヒューム主義が訴えられないもの:自然の中に存在する必然関係と偶然関係の区別。前者を否定しているから、前者に訴えて後者と区別することができない。

ヒューム主義者による法則の解釈:ある一定の重力の下に置かれていた場合、鉄は熱すると膨張する→この世界には、もし鉄が熱せられたら、その鉄は膨張するという規則性がある。だが、ここに必然性はない。

つまり、ヒューム主義者は法則が必然であると主張することができない。だが、たまたま成り立っている偶然と法則の違いはあるように思える。→法則とは規則性+何か

単純な説:全てのFsはGsであるは法則であるのは全てのFsがGsでありかつその場合のみ(論理実証主義者)。

問題点:次の二つの文はどちらも真であり、上の定式を満たしている。しかし、一方のみが法則のように見える。

「ロンドンにある全ての飲み屋では生ビールを提供する」「全ての鉄は電気を伝える」、ただ、両者の間にはかなり多くの差異があるように思える、前者はある一地域のことだけを指しているが、後者は全ての鉄を問題にしていること、後者は自然種をさしているが後者はそうではないこと、など(140)。

これらの考慮を入れたものを自然法とすることも難しい。自然法と思われるものの中には限られた範囲のみで成り立っているものもある。この銀河系の星の動きについての法則など(ケプラーの第一法則)(140)。また、これらを満たしたとしても、自然の法則とは呼べないようなものもある。全ての水素原子はある一定の質量よりも少ない。これは上記の条件を満たしてはいるが、自然の法則とはいえないだろう。

 認論的な特徴づけ(141):適切な帰納的推論において扱うことができるようなもの。単にこの規則性を成り立たせるような例があるということではなく、この一般化が科学の演繹的な体系の一部として機能を果たしているような場合。

例:「全てのヒトはいつかは死ぬ」→実際にこれまでに見られたヒトが死んでいるだけでは足りない。たとえばこれが、「全ての動物はいつかは死ぬ」「ヒトは動物の一種である」などの、関連する科学的な規則の一般化と関連している場合、自然の法則と呼ぶことができる。もしくは、その一般的な法則を使ってさらなる他の知識を知ろうと意志することができるようなもの(Ayer, p. 142)。それが予測に使われる場合、法則と呼ぶことができる(Goodman, p. 142)。

認識的な特徴づけの問題:あまりにも主観的すぎる?ニュートンの第一法(全ての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続ける)のような、実際にこの世界で起こらないような、そして、それが予測に使われないようなものを、法則とみなすことができなくなってしまう。

Goodmanによる反論(p. 144):まだ検証されていないエメラルドについて、grueを使うことはできない。一方で、自然種のタームであるgreenはプロジェクタブル。

様相モデル:自然の法則は現に成り立っている事柄に関するだけのものではない。まだ成り立っていないものについても何らかの情報を提供するようなもの(p. 145)。→自然の法則は反事実条件文を支持するが、たんなる偶然の規則性はそれができない。「もしこの鉄が熱せられたら、この鉄は膨張するだろう」は真であるように思える一方、「もしこのりんごがくだものかごにいれられていたならば、このりんごは熟れたものになっていただろう」が真になるとは思えない。

様相モデルを擁護するためには、反事実条件文の意味論を持たねばならない。だが、法則という概念に訴えることなくこのことを達成することは難問。

web of laws アプローチ:ある規則性が法則であるのは、それが整合的な規則性の集合に含まれる場合。その整合的な規則性の集合はある一定の説明力(単純性など)を持っている必要がある(149)。→最終的にはわれわれの認識的な状況に依拠した形で法則を理解することになってしまう?法則は世界に存在しているものではない?(152)反事実条件文を真にするものは世界に存在する法則であり規則性が他の規則性との間に持つ関係ではないのではないか?(156)

 

 

 

David Copp, Rationality and Moral Authority (2015) in Oxford Studies in Metaethics, vol. 10

合理性の教理(the Rationality Doctrine RD):道徳が規範的であるかどうかは、道徳と合理性の間に何らかの関係がある場合のみ

Copp:RDの一つの形態である「基本的な関係性のテーゼ:the Basic Linkage Thesis(BLT)」を退ける。このことにより、RDにも疑義を向ける。

RDの魅力:もし道徳の規範性と合理性に何の関係もないのであれば、合理的な人間に対して道徳は権威も持たないということになってしまうが、それでは、道徳そのものがどのような重要な意味でも規範性を持たないものになってしまう。道徳を無視しても合理的であれるか否かということ。

もしRDが否定されてしまうと、そもそも道徳が何の規範性を持たなくなってしまう。Gauthier (1986, pp. 1-2), Smith (1994, p. 65), Mackie (1977, pp. 29-30)など。

Coppの自然主義的な説は、このような考えに訴えることで、批判されてきた。もし自然主義が正しい説であったとすると、合理性の要求として道徳的であることが求められないということになってしまい、道徳の規範性が失われてしまう(135)。

CoppはRDを形而上学的な基礎づけの関係として理解している。即ち、道徳が規範的であるのは、道徳が持つ規範的な権威が道徳と合理性の関係によって基礎づけられている場合のみ、というい考えとしてRDを理解している(136)。

RDに反対する立場:

Primitivism:道徳の規範性はそれ以外のものに説明されるものではない。

Reductionism:道徳の規範性は非自然的な事実に訴えることなく説明することができる。

Non-rationalistic reductivism:(場合によっては合理性の規範性をも説明する)根源的な規範性によって、道徳の規範性は説明される。

Coppが注目する重要な前提:道徳的でないことが重要な失敗(significant failure)であるのは、それが実践合理性から見た時に失敗だった場合のみ(139)

Coppの問題意識:そもそもこのような論争が行われている時に、哲学者が規範性や合理性という名前で呼ばれる同じ概念について語っているのか、疑問(139)。

RDはトリビアルな真理?→規範的な要求は実践合理性の要求の1つであるならば、RDはトリビアルに真であるということになる。これは概念的な真理であると考える人もいる。

このようなトリビアルな真理ではない、実質的な主張としてのRDの理解の模索。

規範性を理由によって理解する?

規範性を「べき」によって理解する?

規範性を欲求や動機に還元する?

規範性を理由や「べき」によって理解しようとしても、規範的でない理由や「べき」の事例があるように思えてくる(Foot style etiquette cases)。そうなると、規範的である理由は、合理性と関係があるもの、と言わざるを得なくなるかもしれない。

規範性の分析は難しい。そもそも、規範性は分析不可能なものという考えもある。とりあえず、縛り(bindingness)や、規範的であることに失敗することは、それ自体で問題のあること(independently worrisome)という考えを想定して、議論を進めていく(142)。

合理性について:

能力としての合理性(the competence sense):行為者が合理的であるのは、行為者が自ら熟慮し、異なる理由を比べ、そして理由によって行為できる能力がある場合。

性能としての合理性(the performance sense):能力としての合理性を備えた行為者の活動が関係する基準に合致している場合。

能力としての合理性を持っている場合でも、その意味での合理性が要求するように行為できないという意味で、パフォーマンスの基準にあわない活動しかできないという場合もある。

このような合理性についての考えによってRDを理解する?→これら二つの合理性を満たしていても、合理的でない場合も考えられる。失礼なチェスプレイヤーの事例。失礼な態度をとっているチェスプレイヤーであっても、2つの意味で十全に合理的であるとも考えられる(143)。?? 

性能としての合理性を、合理的なperformanceという観点から理解することで、RDが実質的な主張として理解することができる。

 ただ、そのように言っても、どのような行為が合理的であるか、相当意見が分かれる。エゴイストは、最も合理的な行為は、自らの欲求が一番満たされるように行為することだと言うかもしれないし、このような合理性の考えに反対する人もいる(カント主義者は定言命法に従うことが最も合理的であると言うだろう)。エゴイストはカント主義者に同意して、道徳的である要求が課せられているとは考えるかもしれないが、それは道徳の要求であり、合理性の要求ではないと主張するだろう。

Shafer-Landau(2003, p. 168)やParfit (2011 I, 56)の主張を参考にして合理性を思慮深い(sensible)、理性的(reasonable)という考えによって理解することに一応する。

BLTについて(146):

BLTの内実:必然的に、行為者がcという状況下で道徳的にφする必要があるのは、行為者がφする合理性の要求がある時、もしくは、cにおいてφするように動機づけられている場合のみである。

BLTによって、次のようにwhy be moralの問いが答えられる→われわれが道徳的であるべきなのは、それが実践合理性の要請であるから。

上のBLTは、道徳的でないということは、非合理的である、ということは含意していない。道徳について知らない場合は、合理性の観点からの失敗はない。また、このBLTによると、道徳以外の他の事柄に考慮した結果、道徳的でないことが非合理的であるということにはならない場合も考えられるというのがBLTの内実。

行為の理由についても、合理的な行為者がそれを考慮にいれるということで、取り込める(147)。

CoppによるBLTへの反論(148~)

BLTを擁護する動機:①RDが真であると考えている人たちは、BLTによってそれを支持しようという動機がある。②道徳の動機と合理性の関係を重視する場合、BLTは魅力的(Smith 2010, pp 134-138)。

Coppによる2つの反論

①道徳によって要求されていることと、合理性の要求は、直観的に、全く別物のように思える。道徳の要求は、問題となっている行為がどのような意義を持つのかに依っているはずであり、それがどのように合理的であるのかということには関係がないように思える。

→Smithの応答。道徳についての探究を行うことは、合理性についての探究でもある。虐待が禁じられるべきだという結論にいたる道徳の探究は、合理性の探究でもある(2010)。

②道徳的であろうとしなくてもそれが非合理的でない事例が多くある。アリスの事例。他者の意見を誤って表現してしまったことで、そのことについて誤らないければならないという道徳的な要求が課されている。しかし、もし誤ってしまうと、彼女自身は大変につらい恥をかくことになるし、自尊心を深く傷つけられることになる。また、彼女の職場での立場も非常に悪いものになる。そのため、彼女は誤ろうという動機を持っていない。しかしこのことは、彼女が非合理的であることを示しているとはどうしても思えない。

そもそもなぜRDが重要視されるのか。それは、RDによって道徳の規範性を説明することができそうだから。だが、Coppは道徳の規範性に懐疑的でない理論の間にも論争があり、そのような状況においてはRDが果たす役割はそれほど大きくはない(RDに訴えなくても道徳の規範性を説明できる可能性があるから)と主張する(153)。

 

 

勇敢さに関する考え

勇敢さは他の徳と比べて特殊であるとの考え。それは、他の悪徳を有している人間でも、勇敢さについては持ち合わせることができるように思えるから(『プロタゴラス』359b)

勇敢な人間はどのようなものを恐れるべきかわかっている人、つまり、一種の知識を持った人であるとの考え。逆に、臆病な人は、恐れるべきものに関して無知である人(『プロタゴラス』359a-360d)

『ラケス』でも、恐れるものについての知識が勇敢さの十分条件だという話がある(194e11-195a1, 196d1-2, Irwin 1995, p. 40)。ただ、『ラケス』では勇敢さを耐えるという観点から考えてもいる(193e8~194a5)。『ラケス』についての解釈として、耐えるという能力が勇敢さの定義に必要なのか、議論がわかれる(Irwin 1995, p. 360)。

『国家』では、知識だけではなく、魂のappetitive partも、勇敢さには必要であると考えているように見える(430a6-b2, Irwin 1995, p. 226)。

行為論についての考え

人は自分が悪いと思っている行為を行うことはない。そのような特性は人間の本性的にありえない(プラトンプロタゴラス』358d)。

*このような考えはakrasiaの事例を対処できない。この事例に対処するための行為についての説を、プラトンは『国家』で示しているというのが定説(cf Irwin 1977, p. 198, Wilburn 2015 'Courage and the Spirited Part of the Soul in Plato's Republic')。

快楽によって人の行動原理が破壊されるという考え(アリストテレス EN 1140bl6-20)。

徳一般に関する考え

徳をある種としての優れた特性として理解する(『ニコマコス倫理学』1089a10-15)

徳と習慣(『ニコマコス倫理学』1103a17)

中庸の原理(『ニコマコス倫理学』110421-23)