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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

2月17日

午前中から大学へ。某人事部へ。来年のことで少し打ち合わせ。終了後、某先輩と少し打ち合わせ。昼食は某カウンセラーの友人といっしょにとる。終了後、図書館などで少し調べもの。夕方前に帰宅。家で少し仕事をして夕食。夕食後、地域の集まりに参加。帰宅後、某ネイミングプランを考える。なかなかよいのが思いついた、と思っている。

2月15日

自宅で仕事.研究というよりも雑務をこなす.その中で,少しだけ,Williamsの論文を読んだり.夜,某先輩と電話でお話.結構な長電話.

Bernard Williams 'Practical Necessity' 'Moral Incapacity'

行為者が彼・彼女が行うべき行為について熟慮した結果,ある行為を行わなければならない(must)と結論する場合がある.これが,実践的必然(practical necessity).

ある行為を行わなけれならない,と決めることは,「φするべきである(ought)」と決めることとは違うものであるとWilliamsは言う.この違いについて,Williamsは次のように説明する.

「べき(ought)」が「しなければならない(must)」と関係しているのは,「最良(best)」が「それだけ(only)」と関係しているようなもの

つまり,「φするべき」と言うのは,全ての可能な行為の中でφすることが最も好まれる,ということであり,φしなければならない,と言うのは,φのみが可能な行為である,ということ.また,oughtとmustの違いは,どのような場合にこの主張が偽になるか,という観点からも区別することができる.φすることはできない,と言っていたとして,φしたとしたら,最初の主張は間違っていたことになる.一方で,φするべきではない,と言ったとして,φしたとしても,最初の主張は間違っていたことにはならない.これらの点から,Williamsはmustであらわされる実践的必然は概念的に能力(capacity)と関わるものだとする.

「こんなことはできない,と実践推論の中で結論したとすると,私が気が付いたことは私の何らかの無能(incapacity)の発見」「自分自身の発見」「自身の性格の表現」(130)

実践的必然が典型的にその人の責任と関係している.実践的必然を認識して行為した場合,その行為の責任をその人に帰属することができる.

実践的無能(practical incapacity)について:物理的な必然性とは異なる,自身の道徳的なoutlookの表現としての実践的無能(ルターの例にも言及しつつ)

道徳的無能はその人の性格(character)によって基礎づけられている(60).また,この道徳的無能を,行為者は整合的にとりさろうとすることはできない.ある人が殺人をすることができないとして,しかしこの人が自らの恐れなどを克服して殺人を犯そうとしている場合,この人にとって殺人は道徳的に無理ではない,ということになる.つまり,道徳的不能は,そもそもそのように行為しようとすらできないこと,ということになる(63).

また,この道徳的不能は何らかの熟慮的な過程を経ているものだとWilliamsは考えている(65).

 

2月14日

研究所の一日。午前中はたまっていたメールを返したり、翻訳作業を進めたり。お昼は自分主催の昼食懇親会。わりと人が集まるようになってきた。午後は会議。会議の後、生命倫理関係の打合せ。少し買い物をして帰宅。食事後、奥さんとドラマ観賞など。カルテット、見応えあって面白い。

www.tbs.co.jp

2月13日

午前中は自宅で翻訳作業。午後から大学へ。某先生の本の整理。来週は最終回で運び出しの予定。本の整理の後、某先輩と打ち合わせ。終了後、駅に奥さんを迎えにいく。夕食後、眠り込んでしまった。

2月12日

午前中から午後にかけては自宅で仕事。お昼の時間は地元の高校生と食事。夕飯後も少し仕事をして、その後地元の友人の集まりに顔を出す。

2月9日 10日 11日

9日、10日は奥さんと北関東の某所へ旅行。温泉の凄さ、饅頭のおいしさ、某旅行グループの凄さなどを感じた2日間となった。

11日は午前中から江戸川方面へ。友人の友人に会いに行く。そのまま車で八王子へ戻り、3人でいろいろと懇談。自分は夕方お暇して、他の地域の集まりへ参加。本当は日大で行われていた某言語哲学のワークショップに出たかったのだが、参加できずに残念。