Kamonoha World

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Judith Jarvis Thomson 'The Legacy of Principia' (2003)

ThomsonはMooreのthe open question argumentを以下のように理解する。

ムーアの前提:良さという性質が存在する。

開かれた問いの論証の前提:どのような自然的性質であっても、それを持つもの(things)が良さという性質を持っているかどうかとの問いは、常に開かれている。

開かれた問いの論証の結論:どのような自然的性質も、良さという性質と、同一でない。

ムーアの結論:良さという性質は非自然的性質である。

多くの論者はムーアの結論を受け入れられないから、ムーアの前提を否定する道を選んだ。そしてこの論証の遺産(legacy)として、以下のような非認知主義と表出主義があるとする。

[規範的文の非真理値テーゼ・非認知主義]:規範的文は真理値を持たない。

[表出主義]:規範的文を使うことによって話者がやっていることは態度の表明であり、「殺人は悪い」という文を発話することは、「Hurrah!! to killing」「Boo!! to killing」することと同じである。

このような表出主義は開かれた問いの論証に関して以下のような説明を与えることができる。開かれた問いの論証では、あるものがどのような自然的性質を持ったからといってそれによってそれが規範的性質を持つかどうかとの問いは開かれているとされているが、表出主義によると、aが自然的性質xを持つということと、aが規範的性質を持つ(=aに対して何らかの態度が表出されている)ということは違うことであるから、なぜ両者の間にギャップがあるのか、説明することができる。

Thomsonは非認知主義への反論として2つの代表的なものを挙げる。

1つ目はGeachによるもので、Geachは規範的文が仮定文として与えられた場合、真理値を持っているように振る舞うと主張する(いわゆるFrege Geach problem)。

2つ目の反論として真理のminimalismを挙げる。真理のミニマリズムは、「”S”は、Sであった場合、かつその場合のみ、真である」とのいわゆるT-Schemaを主張するが、真理のミニマリズムをとった場合、以下のような仕方で非認知主義は拒絶される。

T-Schemaによると、「ヒトラーは道徳的に悪い人間だった」という文は、ヒトラーが道徳的に悪かった場合、かつ、その場合のみ、真である。多くの人は、ヒトラーが道徳的に悪かったことを否定することはないだろう。ということは、上の文は真であるということになり、真理値を持つものということになり、非認知主義は偽であるということになる。

ThomsonはBlackburnなどはこのような反論を真剣に受け取り、非認知主義は放棄したが、表出主義は確保しようとしたと述べる。ただ、Jackson et al. 1994などは非認知主義者はこのような反論に応えることができるとも論じており、真理のミニマリズムから非認知主義を否定することは困難であるとも述べる。

次にThomsonは再びGeachによる反論を検討する。Thomsonは次のような論証に見えるものを提示する。

全てのギリシャ人は道徳的に悪い。

ヒトラーギリシャ人である。

それにゆえに、ヒトラーは道徳的に悪い。

Thomsonはこの論証の妥当性は、規範的文が埋め込み許容性(embeddability)を持っているからではなく、「・・・は道徳的に悪い」という規範的述語が推論的な役割を持つ論理的述語(logical predicate)であるからだと説明する。このことから、Thomsonは以下のように非認知主義と表出主義に反論することができると主張する。

(P)「・・・は道徳的に悪い」は論理的述語である。

(C1)道徳的な悪さという性質が存在する。

(C2)もし太郎が、「ヒトラーは道徳的に悪い」と発話したならば、彼は道徳的な悪さという性質をヒトラーに帰属させている。

(C3)太郎が発言したことは真理値を持っている、即ち、もしヒトラーがそのような性質を持っていれば真であるし、そうでなければ偽である。

(C3)は非認知主義の否定であり、(C2)は表出主義の否定である。

*ThomsonはBlackburnは上のような意味で表出主義ではないかもしれないと述べる。Blackburnの準実在論は、(C2)を受け入れるのかもしれない。Thomsonはexpressivismという言葉そのものはGibbardによって使われたものだと述べる。

Thomsonはこの論証について検討していく。まずは(P)から(C3)への推論は、嘘つきのパラドックスを導いてしまうと述べる(Glanzberg 2002 'Minimalism and Paradoxes')。

次に、(P)から(C2)への(表出主義への)反論について検討する。Thomsonは2つの応答を検討する。1つ目は、(P)から(C1)への推論の否定である。これは、性質というものがそもそも存在しない、という反論である。Thomsonは多くの表出主義者は性質の存在を認めるだろうから、この反論は彼らが採用するには強すぎると述べる。

もう少し穏健な反論として、Thomsonは以下のような応答を検討する。表出主義者は、「・・・はPである」は論理的述語であるとの事実が、「・・・はPである」が性質に対応することを正当化するのは、この表現が非規範的な論理的述語である場合のみである、と主張することができるかもしれない。

なぜ表出主義者はこのような主張をするのだろうか。Thomsonは3つの理由を挙げる。1つ目は、規範的文の使用、もしくは機能は、話者の態度の表出することであるから。2つ目は、規範的述語は記述的なものではなく、評価的なものであるから。3つ目は、規範的述語が表れる心的状態を有していた場合、行為者は動機づけられるが、信念を有していた場合は動機づけられない(動機に関するヒューム主義)、だから規範的判断は信念ではない、もしくは規範的信念とはそれを持つことで動機づけられるような大変に特殊なものである。Thomsonはこの3つ目の動機に関するヒューム主義が、近年の表出主義者が最も重要視する考えだと述べる。

(3)から「規範的性質は存在しない」という主張への推論は容易に見ることができる。もし規範的信念が存在しないのであれば、それに対応する性質も存在しないことになる。

Thomsonはヒューム主義に対して反論を試みる。Thomsonは規範的信念(というものがあったとして)、それを持つことで必然的に動機が与えられるものと、そうでないものとを区別できると主張する。Quine的な信念の網の比喩を用いて、中心にあるものが定言命法で、その周りにあるのが少し一般性を欠いた信念、「ヒトラーは道徳的に悪い」「太郎は彼の庭の草むしりを行うべき」などで、網の端にあるのは、「私はxを行うべきだ」「私はyを行うべきだ」などの信念であるかもしれない。このような端の信念に沿ってどのような行為をするべきかは明確だが、中心にあるものに沿って行為することがどういうことなのか、明確でない。さらに、端にある信念にしても、それを持っているからといって本当に動機づけられるのか、明確でない。「今日中に本を図書館に返さねばならない」と強く信じていたとしても、あまりにつかれていて今日中に返そうとはしないかもしれない。

Thomsonはこの規範的信念と動機を巡る問いについて、そう簡単には解けない問題であると述べる。たしかに、深い鬱状態にあり、何のやるき・動機も持たない人も、全ての規範的信念を放棄しているとは言い難いと思われる。しかし、なぜそのように言えるのか、説明することは難しい。どちらにしろ、我々が抱く規範的な網の目が信念ではなく、それに対応する性質が存在しないとする考えは、ヒューム主義の問題点を考えると、かなり擁護が難しい主張ということになる。

次のThomsonは表出主義のその他の動機について検討する。Mooreの開かれた問いの論法に戻ってみると、Mooreの論証の結論は非自然主義的性質の存在である。Mackieのqueerness objectionは動機に結び付けるものだったが、ヒューム主義への反論を考慮すると、この反論は退けることができるように見える。そのような関係を否定することができるということ。

Thomsonは、規範的性質が非自然的性質である、という結論がなぜ多くの人に受け入れられないのか考察する。たとえばAyerは、経験的にその保持が問えないような性質はないから、もし規範的性質があったとしてもそれは非自然的な性質であれば、そのようなものは存在しないという結論に至った(Ayer 1946)。Ayerの議論を拒否したとしても、経験的な方法でその保持の是非を見分けることができない性質ということになると、たしかに大変に奇妙な性質ということになるかもしれない。このことから、多くの人はMooreの開かれた問いの論法への反応として、規範的性質は存在しないという結論に至った。

Thomsonはもう1つの動機として、「それは良いね」などの表現が同じものを指すわけではない(「昨日うちのチームが勝ったのは良かったよね」「そのペン、なんか良いね」という表現で指されているものは違うもの)、つまり内容が空虚(the content is empty)であることを挙げ、このこともそのような性質は存在しないという結論にいたる理由になると述べる。

この2つ目の反論について、Thomsonは全面的に受け入れるべきだと述べる。そこから、次のような議論を展開する。「Aは良い」という文で指される良さという性質は存在せず、この文の述語も論理的述語ではない。つまり、「Aは良い」という文は、意味論的に不十分(semantically incomplete)である、と主張する。「良い」という述語は、「Aは良いペンだ」「Aは良い踊り子だ」といった表現においてはじめて、意味論的に完成したものになる。「Aは赤いリンゴだ」という文は意味論的に完成したものであり、「Aは赤い」と「Aはリンゴだ」を含意している。しかし、「Aは良い踊り子だ」は「Aは良い」と「Aは踊り子だ」を含意していない。[この区別を援用して、Thomsonは後のNormativityなどで人間の良さとトースターとしての良さの比較検討を試みている]

この点から、Thomsonは表出主義者が以下のような誤りを犯していると指摘する。即ち、表出主義者は、「Aは良い」との発話は、Aに対して良好な態度を表明することだけだとするが、この考えは誤りである。「Aは良い」という発話が意味しているのは、「Aは良いxだ」などである。Thomsonは自らの立場の標語として、全ての善は、ある仕方で、善い(all goodness is goodness in a way)、との主張を提案する。

Thomsonはこの立場をevalautive termsだけではなく、right, correctなどの他の規範語にも拡張させる。

Thomsonはこのように規範的性質を理解した場合、規範的性質と自然的性質の差異は崩れ去ると述べる。心地よさbeing pleasantは自然的性質であると思われるが、心地よくあるというのは、一つの良いあり方であるとThomsonは述べる。誰かが私にある映画を見に行くべきだと言ったとしよう。なぜか?その人は、「その映画は何とも心地よい喜劇なんだ」と述べたとしよう。この発言において、その人はその映画の心地よさを讃えている。[Thomsonがここで主張しているのは一種の同一説である様子]