Kamonoha World

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David Copp Normativity and Reasons: five arguments from Parfit against normative naturalism

自然主義者は道徳的性質は他の自然科学で探究されている自然的性質と似たものだとする一方、非自然主義者はこれを否定する。この意見の不一致の主な原因は、後者が道徳的性質の規範性(normativity)を自然主義者は説明できないと考えていることである。

虐待は悪いという事実は規範的であるが、虐待はいたるところで見られるという事実は規範的ではない。前者が規範的であるのは、悪さの性質によると思われる。果たして、自然主義者はこの悪さの規範性を説明できるのだろうか。

Coppは自然主義に対する反論としてParfit, Dancy McNaughton & Rawlingによるものを挙げる。Coppはこれらの反論を退けようとするわけだが、その前に、議論の前提となっている「自然的性質」と「規範性」について、これらが何を意味しているのか、明確にする。

自然的性質の定義について

MooreのPrincipiaでの主張に従って、自然的性質を自然科学で探究されるものとする戦略・分野的戦略(disciplinary)、ParfitやShafer-Landauも用いている戦略

問題点:通常自然的性質と見なされるものがはじかれてしまう。aよりbの方が重いという性質、ナイフであるという性質、9月に生まれたという性質、吊り橋であるという工学的な性質、など。また、経済学では分配的正義の問題が、歴史学においても道徳的判断などが言及されることがあるが(Sturgeonの道徳的説明がその代表格)、このような道徳への言及をどのように考えるのか、という問題が残されてしまう。

MooreがPrincipiaで分野的戦略に言及する直前に述べていた戦略、倫理の結論は経験的な観察や帰納法によって得られるとの認識論的戦略。Coppはこの戦略が用いられるべきだと主張する。道徳的性質の例化に関する総合的命題の真偽が経験的方法によって知られることができる、という主張が、自然主義者が擁護したい考えであり、非自然主義者が否定したい考え、ということになる。

規範性について

自然主義者が、道徳的性質は自然的性質だ、と主張する場合、「全ての道徳的性質はある自然的性質と同一である」というトリビアルな主張をしている、ということになる(Sturgeon 2006)。Coppはこのようなものよりもより実質的な規範性に関する説明が必要だとする。Coppは、自然主義者は次のような主張をする必要があると述べる。「規範的であるということは、Nであるということ」、この主張のNは自然的性質に対応する述語が置かれる。

このような理解にたつと、自然主義者と非自然主義者の対立は以下のように理解することができる。

自然主義者は、「規範的であるということは、Nであること」という主張が、(Sturgeon的な)トリビアルなものではなく、説明的であり、哲学的に興味深い性質の同一性に関する主張であることがある、と主張する。

自然主義者はこれを否定する。

Coppはここで、このような主張が分析的、もしくは概念的真理であると主張する分析的自然主義について言及する。とりあえずこの論文ではこのような種類の自然主義は脇に置いておくとする。

さらにSturgeon流の非還元主義的な自然主義についてもここではとりあえず脇に置いておくという態度をとる。Coppはたとえ上のような形式をとる主張が自然主義的に擁護できなくても、一応、自然主義者はSturgeon的な非還元主義的な自然主義を擁護することができるとする。だが、自然主義と非自然主義の論争においては、還元主義的な自然主義に焦点をあてないと、あまり哲学的に魅力のあるもの(compelling)でなくなってしまうと述べる。

たしかに、規範性に関する論争においては、まず還元主義vs非還元主義という構図で議論をしないと、話が前に進まないようにも思える。だが、そうなると、非還元主義的自然主義と、非自然主義の対決は、どのように考えればよいのだろうか。やはり非還元主義をとりながら自然主義を維持できるのか、ということになるのだろうか(まさにこれが80年代以降、ずっと論じられてきた道徳的説明を巡る論争ということになると思うが)。

自然主義と非自然主義の対立はしばしば不毛なものになるとCoppは言う。それは、そもそも規範性とは何か、哲学においてコンセンサスがとれておらず、自然主義があるMというものを自然的性質が持つと主張することを目指しても、非自然主義者がMではなくEを持つべきだ、といった議論になってしまうことがあるという。一応、典型的に規範的性質とは、「指令的(prescriptive)」「行為指導的(action-guiding)」「権威的(authoritative)」と言われるが、どれもさらなる説明が必要であり、かつ、どれが規範性にとって本質的なものか、よくわからない。

さらに道徳に関する規範と他の規範の関係についても論争がある。実践理性(practical reason)が規範の基盤であるという考えもあるし、道徳の規範が他の規範を覆す(override)するものとの考えもある。このような現状では、自然主義者は自然的性質がある仕方で規範的であると主張するかもしれないが、非自然主義者はそのような規範では満足しない、といった事態も起こる。

このような状況下で、Coppは次のような規範に関する考えは、この論争に加わっている論者に受け入れられるものになるとして、提案する。

関係性による規範性の特徴づけ

規範的事実は我々の行為などの決定に関して直接的・内在的な関係を持つ。その事実の内容によって、我々の決定や判断を指導する。

たとえば、虐待は悪い、との事実は、我々が虐待をするのかしないのか、虐待を許容するような政策を認めるのか認めないのか、このような決定に明らかに関係する。だが、虐待が広く行われている、という事実は、虐待は悪い、という事実のように、直接的には我々の行為の決定に関係しないと思われる。

ただ、このように考えると、「Aという行為を行うと、皆が快適になる」という事実も、規範的事実として数えられるように思える。この事実は我々の決定に関係するように見える。

このような問題を解消するために、Dancyはメタ的事実という考えを提案する(2006)。Dancyによると、メタ的事実とは、「pはwということをするべきである(ought to)というようにする(making it the case)」という形式を持つ。上の例で考えると、「皆が快適になることは、そのような行為をするべき、というようになる」というメタ的事実が我々の決定に直接関係のある規範的事実ということになる。

 CoppはDancyの提案に同意しない。CoppがDancyに同意しない主な理由は、上のような事実が本当に直接的に我々の決定に関係がないと言えるのか、不明確だから。

次にCoppはParfitによる規範性の特徴づけを検討する。Parfitは規範性を理由という考えによって特徴づける。即ち、ある主張が規範的である場合、その主張は何らかの理由に関する主張も含んでいる、ということになる。CoppはParfitの主張を、規範的事実は理由の存在を含意するもの、として理解する。道に蛇がいる、という事実は、我々がその道を避ける理由になると思われるが、この事実は明らかに非規範的事実だと思われるから。ただ、Parfitは、「我々は、道徳的が要求することを、実行する理由がない」という立場も認める。となると、道徳的事実は規範的事実ではなくなってしまう、ということになる。これは明らかに問題があることだとCoppは言う。さらに、DancyがParfitのような特徴づけに対して、規範性が何かということを説明することなく、理由という他の規範的な概念に訴えているだけ、と批判し、もし非自然主義者が自然的性質・事実は規範的事実でないと主張したいのであれば、そもそも規範性とは何か、説明しなければならない、と主張していることも挙げる。

規範性に関する5つの論法

CoppはMooreの未決論法はSturgeonやDancyの議論に訴えて妥当なものではないとして退ける。

*①2つの語が違う意味だったとしても、同じ性質を指す場合がある。水とH₂Oがよい例。②Mooreは「良い」という語は、その他の非価値語によって指されるものではない、と主張するが、この「良い」という言葉しかさせない自然的性質があるという可能性が残されている。このような可能性を模索してきたのが、コーネル実在論者。

5つの論法

(1)理由に関する論法:自然主義は実践的理由に関して説明ができない(Parfitは規範性を理由という考えによって理解しているから、Parfitの規範性に関する論法はこのような形態をとる)

(2)「だから」からの論法(argument from Because):どのような規範的事実も、何かの自然的事実が成り立っているから、成立している。しかし、規範的事実そのものが自然的事実であったら、この関係が成り立たなくなってしまう。

(3)規範性に関する論法:還元主義者は道徳的性質を他の自然的性質に還元させるが、そのような同一性の主張をしても、規範的事実が持っている規範性が失われてしまう。

(4)些末さの論法(triviality objection):もし規範的事実Mが自然的事実Nと同一であるということになると、NはMであるという主張は、NはNであるという主張と同義ということになる。となると、NはMであるという主張は些末なものということになってしまう。しかし、NはMという主張は些末なものではない。

(5)自然主義のジレンマ:自然主義が真であった場合、道徳的な主張を行う意義がなくなってしまう。そうなると、ニヒリズムとほぼ同じことになってしまう。

 (1)に関して:Parfitは次の2つの議論を提示する。①もし理由に関する事実を心理学的な事実(理想的な状況におかれた場合、その行為をしようと動機づけられる、など)に還元できたとしたら、明らかに理由に関する事実が成り立っているのに、心理学的な事実が成り立たない事例がある。火事のホテルのケースや、復讐のケースなど。②自然主義は我々の理由に関する信念に関する錯誤説に陥ってしまう。[この点について、Coppはあまり詳しく説明していないが、Parfitの議論を見てみると、以下のようなことだと思われる。火事のホテルのケースで、たとえその人が理想的な状況下におかれたら水辺に飛び込むように動機づけられると信じていなくても、我々はその人は水辺に飛び込むべきだと信じる。だが、もし自然主義が真であった場合、後者は偽ということになってしまう。だがこれはにわかに信じがたい]

Coppの反論:①上で述べたように、規範性を理由という考えで理解することには問題がある。②理由の信念に関する錯誤説を取ることはそれほど問題ではない。科学に関する信念を例にとってみると、我々の信念は多くの場合で偽。③Parfitは自然主義の例として主観説(subjectivism)を採用しているが、自然主義は主観説を採用する必要はない。③に関して:たとえば自然主義者はCoppが提唱する自然主義的目的論を採用することもできるし、動機によらない実践理性(ある事実を、行為の決定の際に考慮する、など)に訴えることもできる。

(2)に関して:Parfitは説明関係は異なる2つの性質間でのみ成り立つと考えている。この反論はMcNaughton & Rawlingも試みている。

Coppの反論: 他の非因果的説明関係を見てみると、還元的な意味で説明が使われていることがある。功利主義者が、ある行為は、それが幸福を最大化するから、正しい、と主張したとして、この功利主義者は両者の関係を還元的なものとしても主張できるし、非還元的なものとしても主張できる。最初から前者を否定することは論点先取。

(3)に関して:この論法の前提は、規範的概念は、規範的性質は自然的性質になり得る可能性を拒絶する、というもの。Parfitがこの前提が正しいと主張する主な理由は火事のホテルなどの比喩(「水辺に飛び込むべきだ」という規範的事実が、「もし理想的な状況下にあれば水辺に飛び込むように動機づけられる」という自然的事実と同じとは思えない)と。概念的に拒絶(exclude)できる可能性について、Parfitは熱という概念がそれがキャベツであるという可能性を拒絶する、という例で説明している。

Coppの反論:概念的な拒絶を巡る議論に関して、たしかに正しいという概念はそれがロケットであったり山であったりする可能性を拒絶すると思われるが、それが自然的性質であるという可能性を拒絶していることにはならない。CoppはParfitが行っているのは単なる比喩に訴えることだけであり、なぜ自然的性質が概念的に拒絶されるのか、説明する必要があると主張する。

Dancyの議論:規範的なメタ事実は自然的事実と同一にはならない。NはMであるという事実は自然的事実かもしれないが、NはMであるという事実は我々の行為の決定に関係があるというメタ事実は違う。

Coppの反論:Dancyはメタ的事実は明らかに自然的事実ではないとしているが、なぜそうなのか、説明できていない。自然主義者はこのメタ的事実が自然的だと主張しているから、この点について議論しなければならない。この点はDancy自身も論証を示すことはできていないとしているし、メタ的事実の中には以下のような自然的事実もあることを認めている。このやかんに手をつけたら痛い思いをするという事実は私にやかんに手をつけないように決めさせる(deter)というメタ的事実は、自然的事実であるように思える。

Dancyの再反論:ある事実が我々の決定に直接的に関係しているか、間接的に関係しているか。自然的事実は後者にしかならない。

Coppの応答:問いのされ方によって直接的・間接的の意味が変わってきてしまう。このグラスには水が入っているか、と聞かれて、入っているのは香水だと答えたとして、この答えは直接的な答えではないかもしれないが、だからといって香水が水と別個のものかどうかはわからない。同じことが道徳的性質と自然的性質の関係においても言える。

(4)に関して:実はこの論法も3つの異なる形態を持つ。①もし自然主義が真であった場合、実質的な規範的主張が些末なものになってしまう。②もし自然主義が真であった場合、そのこと自体が些末な事実だということになってしまう。もし自然主義が偽であった場合のみ、この事実は実質的であり、興味深いものとなる。③規範的主張は、規範的であり自然的であるような事実を述べることはできない。

Coppの反論:

①に関して:功利主義的な理論が悪いからといって、そこから全ての自然主義的な理論を否定することはできない。Jacksonの理論やCopp自身の理論に対する反論として一般化することはできない。

②に関して:Parfitの主張は、もし自然主義が真であった場合、NはMはNはNと言っているようなことになってしまうので、大した意義を持たない、というもの。自然主義者は、2つの性質が同一のものであったとしても、そのことが重要な情報を与えることがあるということを、水とH₂Oの例などに訴えて主張することができる。このような情報的な応答はKingによる構造的命題の理論に訴えてさらに強化することができる。水は水であるという命題と水はH₂Oであるという命題は、構造が違う。

だが、このような構造的命題の理論に訴える場合、事実の個別化を徹底させる必要があり、還元主義的な自然主義者はこの戦略をとることが難しいと、Coppは言う。

還元主義者が考えるべきこと:以下のような強い事実の同一性のテーゼを受け入れなければならないのか否か

もしMとNが同一だった場合、あることがMであるということは、それがNであるということになる、ということ。

③に関して:Parfitの3つ目の議論は、このような事実の形而上学に関するものと理解することができる。

(5)について:これはいわゆるHard Naturalismの問題。もし自然主義が真であった場合、我々は規範語を使う必要がなくなる、というもの。自然主義者はそのような含意を持たないsoft naturalistsになることを目指せるが、Parfitはsoft naturalismは不整合であり、hard naturalismにならざるを得ないと主張する。

Copp:規範的性質が規範語によって指されなかったとしても、規範語を使用することは重要であると自然主義者は主張することができる。また、Coppが主張するような実在論的表出主義を受け入れれば、規範語がある態度の表出のためにも使われるという意味で、重要なものであると主張することができる。

まとめ:Parfitの主な誤り。①自然主義者が規範性を動機によってしか説明できないと考えていること。②規範性を理由という考えで理解し、この考えに沿って自然主義的な理論として想定したのが主観説であったこと。③自然主義的な性質の同一によってどのような情報がもたらされ得るのかあまり議論できていないこと。