Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Kimberley Brownlee. A Human Right against Social Deprivation

Brownleeは社会的剥奪(social deprivation)にさらされない権利を主張する。彼女はこの権利は人権を巡る議論の中で見過ごされてきたものだと主張する。また、Brownleeはこの権利は他の重要な権利を守るために必要なものだと主張する。

Brownleeは剥奪を、貧困など、経済的な事柄からは独立したものとして提案する。そうではなく、剥奪を、他者との関わりなどの、社会的な関係に関するものとして提案する。

Brownleeは近年の社会的・経済的な権利を巡る議論が、後者に偏っていて、前者の重要性が見過ごされていると主張する。この点について、近年の人権を巡る議論や実際の人権規約などを引き、論じる。

また、市民権や政治的権利に関する議論が、虐待や非人道的な扱いに関するものに偏っていて、それらがどのように関係するのか、特に強制的な社会的な孤立などについてどのように考えるか、見過ごしていると主張する。

Brownleeは社会的剥奪に関する権利が見過ごされてきた背景について、いくつかの提案を行う。一つは、人間にとって基本的なことが見過ごされてきた背景があると言う。たとえば、空気を吸う権利は、当然保障されねばならないものだが、それほど熱心に論じられてきていない。二つ目は、西洋社会が個人主義的であり、社会的剥奪をそれほど問題視してこなかったこと。Brownleeは二つ目の説明に親近感を感じている様子である。

Brownleeは以下のような2つの前提を提示する。

①我々は最低限の人間的な生活のために(minimally decent human life)必要なものへの権利を有している。

②最小限の社会的な関わりや社会への参入は、最低限の人間的な生活のために必要であり、かつ、その一部である(constitutive part of)。

Bronwleeは前提①は他にも擁護している論者がいるので(Nickelなど)、前提②の擁護に焦点をあてる。

Brownleeは前提①の擁護として、いくつかの理由を提示する。1つ目は規範的な理由であり、2つ目は経験的な知見に訴えるものである。

概念な議論:人間という概念、人間であることの意味は、社会性を含んでいる。人間は偶然的でない社会的な必要性を満たすことが必要である。

経験的な議論:社会神経科学的(social nero science、John Cacioppoによるものなど)な研究成果によると、人間は社会的な関わりがその正常な生存に必要であることがわかってきた。子どもなどの若い世代に関しては、非常に明快だと思われる。たしかに子どもの頃に適切なケアを受けないことは、その子の現在だけでなく、未来にも大きな影響を与える。また、社会的に孤立している人は、主観的幸福も低く、健康状態も悪くなりがちであり、血圧に影響が出るとも言われている。刑事司法に関する研究においても、禁固刑を受けた受刑者は、食欲の低下、睡眠の過多、うつ症状、記憶力の低下など、様々な影響を受けるとされる。そしてそれらは釈放された後でも続くとされ、このような経験は虐待(torture)と同じことであるという見解もある(Atul Gawandeの報告など)。

規範的な議論:Brownleeはカント的な人格を人格として尊重する権利、そして社会的な参画は内在的に価値あるもの、との主張をする。[ただ、この部分に関するBrownleeの議論は少し甘いように思う。なぜこれが内在的に価値を持つのか、よくわからない。少なくとも、幸福・福利論に詳しい論者は、さらなる説明を要求するように思う。はっきりとは書いていないが、カント的な自律を達成することは、社会的な参画がその一部である、ということなのかもしれない]

Brownleeは自身の立場をLiaoが主張している子どもが愛される権利などとは理論的に違うものだと主張する。それは、①Liaoが主張する権利は愛される権利だが、Brownleeが主張する権利は、社会的に関わってもらう権利ではないので、その意味で、穏健。②Liaoは子どもが愛される権利を主張しているが、Brownleeは全ての人が社会的剥奪を免れる権利を主張しているという意味で、強い。

Liaoの議論:子どもは適切なケアを与えられるだけではなく、愛される権利も持っている。それは、愛されなければその子どもの心理学的・社会学的・物理的な発達が脅かされるから。このことは、経験的知見に訴えることで、擁護できる(例:ケアを与えられても愛されなければ学習障害を持ちやすい、自分のおかれた環境について全く興味をしめさない、身長や体重にも差が出てくる、うつ病になりやすい、不眠症になりやすい、など)。

 

また、BrownleeはNickelの議論に従い、人権に関する6つのテストを提示する。Brownleeは社会的剥奪を避ける権利がこのテストを通過すると考えている。

①その権利は実質的な脅威に対する社会的な保障を提供するか?

②その権利は人間の尊厳性に対する十分な脅威から我々を護るものか?

③その権利は全ての人に普遍的にあてはまるものか?

④その権利よりも弱い規範が同じように効果的であるか?

⑤その権利が我々に課すのは規範的な責任(burden)だけで、生活や健康の脅威になるものではなく、根源的な自由を侵すものでもなく、残酷であったり不平等であったりするものではないか?

⑥その権利は今日存在する国々において実際に実行できるものか?

Brownleeは自らの主張に対する以下のような反論についても論じる。

反論①:社会的剥奪を回避する権利は、もともと社会的関係を提供してきた家族の関係を破壊するものではないか?

応答:たしかに、この権利を主張することで、家族の関係が破壊されることは避けなければならない。しかし、家族の関係が常に良好なものだとの理想的な想定は疑ってかかるべき。この権利は適切な家族関係を持たない人のためのものと言える。

反論②:様々な形で自由権を侵害するのではないか?社会的な参画を拒む権利が侵されるのではないか?サイコパス症状を持つものや、暴力的な人にも、社会的参画を本当に促すべきなのか?

応答:子どもがケアを受ける権利は全ての子どもに当てはまるが、実際にそのようなケアを国が提供するかどうかは状況による。それと同じように、全ての人が社会的剥奪を回避する権利を有するが、実際に国がそのような機会を提供するかどうかは状況による。

*O'Neilは自由に関する権利と福利に関する権利を区別し、福利に関する権利を否定している様子(The Dark Side of Human Rights)。この点に関しては論争がありそう。

反論③:実際にこのような権利を実行に移すのは難しい。

応答:この権利を実行しない方がコストがかかる。この権利を剥奪された人たちの治療には大変なコストがかかる。受刑者にも最小限の社会的剥奪を回避する権利の保障は認められるべき。