Kamonoha World

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Nicholas Sturgeon. Ethical Intuitionism and Ethical Naturalism

(今ではそうでもなくなってきたが)直観主義はしばしば否定される。では、この直観主義と反省的均衡の方法の関係はどのようなものになるのか?HareはRawlsへの批判として、この方法が(道徳に関する感覚を想定する)直観主義に訴えざるを得ないと批判している。また、Mackieも、道徳に関する客観主義は最終的には直観主義に訴えざるを得ないとも主張している。これらの主張に対して、いわゆる直観主義はとらないが、道徳的実在論も擁護したい自然主義者はどのように応答することができるのか?

Sturgeon:大きく分けて自然主義者には2つの戦略がある。1つは自然主義者は全く直観主義的な要素を持たないと主張すること。2つ目は、直観主義的な要素を持つが、それは擁護不可能なものではない、と主張すること。

Sturgeonは前者をとると言うが、ただ2つ目も見込みがないわけではないと言う。もともと直観主義に向けられていた反論は、それほど明らかなものではなく、かなり複雑な議論になるはずだとする(直観主義は非自然的性質の存在を想定し、これに対して多くの反論があったが、実はこの論争もそれほど単純な話ではない)。

直観主義のための論証はいくつかある。その1つは、内在的価値は形而上学的に単一(simple)である、単一な性質に関する知識は非推論的である、故に、内在的価値に関する知識は非推論的である、との論証。この論証は単一な性質に関する前提が多くの人には受け入れられないのでなかなか難しい。

もう1つの論証:

①全ての知識は、他の既に知られている知識からの合理的な推論か、非推論的なものでなければならない。

②全ての知識は、非推論的な知識に依っている。(①と②が認識論的な基礎づけ主義)

③非道徳的な前提から道徳的な結論を合理的に推論することはできない(道徳の自律性 the autonomy of ethics)。

④もし道徳的な知識があるならば、そのうちの少なくともいくつかは非推論的なものでなければならない(非推論的な道徳的な知識がなければならないということ)。

⑤我々は道徳的な知識を持っている。

⑥結論:少なくともいくつかの道徳的な知識は非推論的である(直観主義の中心的な主張)。

③について:通常、ここで言われている推論は、演繹的な推論のことだと思われている。だが、非演繹的な推論が知識を発生させることもあることは十分に考えられる。たとえば最良の説明への推論など。このように考えると、実は③は非演繹的な推論についてもカバーするべきなのかもしれない。

これらの前提それぞれは実はそれほどおかしなものではない。だから、もし直観主義を否定するということになると、このそれぞれはそれほどおかしくはない前提のどれかを否定しなければならないということになる。

この論証と道徳の形而上学の関係:道徳的な思考は行為指導的なもの、との前提が加わると、道徳的性質の例化は行為指導的なものということになるかもしれない。たしかに、そのような性質は、通常の科学で探究されるようなものではなさそう、という意味で非自然的と言えるかもしれない。

このような内在主義的な前提を用いないで③を擁護するにはどうすればよいか。

自然主義者の認識論的な主張:道徳的事実に関する知識の獲得方法は、他の自然的事実に関する知識の獲得方法と同様のもの。

③を否定する戦略:その例としてFootが挙げられる。Footは自然的事実が他の証拠によって知られる仕方は、その事実や関係する証拠の意味、概念がどのように使われているか知ることであるとする。それらに関する知識があれば証拠の標準も明らかになる。道徳的知識も同じような仕方で獲得される。これは、問題となっている言語の使われ方さえ理解できれば、その場合の証拠の標準が明らかになり、非道徳的な前提から道徳的な結論が導き出されるということ。

SturgeonのFootへの反論:証拠の評価はその証拠の意味や問題となっていることの意味を知るだけではできない。証拠の評価は理論負荷的である。科学の例がこの点を明確にしてくれる。AがBの証拠になるかどうかは、AやBに関する理論に訴えてはじめてわかる。このことから、科学においても次のようなことが言える。観察的な前提のみから非観察的な結論を推論することはできない。このような意味で、非観察的なものの自律性が確保できる。③も同じように自然主義的な説明を与えることができる。

このような意味で③を理解した場合、他の分野にも言えるということで、③は特別な説明をする必要もなくなり、それほど擁護が難しいものではなくなる。

では、直観主義者はこのような仕方で③を擁護することができるのだろうか?

Sturgeonの主張:直観主義者はここで、他の事柄に関する直観主義も受け入れるか、直観主義を放棄するかの選択を迫られる。他の事柄とは、たとえば非観察的な事実、未来や過去に関する知識など。だが、これらが非推論的に知られるとは思えない。典型的な方法は最良の説明への推論などの推論的な方法。

科学者の直感的な判断をどう理解するか?→Boydの提案に従い、それもむしろ背景理論からの推論的なものと理解するべき。そのような背景理論があるから、科学者の直感的な判断は信頼のおけるものとなる。

Sturgeon自身の直観主義の論証への対応:道徳の自律性は維持し、基礎づけ主義を否定する。

道徳における観察について:たしかにそのようなものはある。だが、それらは常に理論負荷的なもの。

WernerやMcNaughtonの反論:もし道徳的な観察が推論的なものであった場合、そのような観察によって驚き、道徳に関する意見を変えることはないはず。

Sturgeonの応答:他の分野に関することでもそうだが、立ち止まってしっかり考えないとわからないこともある。そして、そのような熟考は推論と呼べるものであり、そのような推論を合理的な推論と呼ぶことができる。

道徳的な観察に関する現象学では、直観主義の方がに分があるのでは?我々は実際に推論などしているようには見えない。

応答:なぜそのような観察が正当性を持つのか問い始めると、整合説に訴えざるを得なくなるのではないか。