Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Pekka Väyrynen. Some good and bad news for ethical intuitionism

Sturgeonの直観主義批判への応答。

VäyrynenはSturgeonの議論には問題があると主張するが、それでも直観主義は議論が分かれる想定をする必要が出てくると論じる。

VäyrynenのSturgeonへの反論:

BonJourア・プリオリ性の説明:ある命題がア・プリオリに知られるというのは、その命題を知るのに経験に訴える必要がない場合。ただ、その命題は経験によって否定されるかもしれない。

直観主義の2種:

①ア・ポステリオリで非推論的な知識がある

ア・プリオリで非推論的な知識がある

①のケース:他の推論に依らない道徳知覚のようなものによって知識を得ることができるかもしれない。

問題:このような道徳知覚は意識的ではないが背景理論に影響を受けているものかもしれない。もしそうであれば、この知覚も推論的ということになるかもしれない。

背景理論の働きについて丁寧な議論をすれば、この問題は解消できる。

背景理論の4つの働き(Pryor, The Sceptic and the Dogmatism)

①我々が持つ背景理論が我々の持つ経験に因果的な影響を与える。

②ある知覚的な経験を持つために、それに対応するある背景理論を持つ必要がある。

③正当化のために背景理論が必要。

④経験から得られる正当化は背景理論によって拒絶することができる。

Väyrynenは、ア・ポステリオリ的直観主義は①と②と両立すると主張する。①は、どのような背景理論から知覚的な経験に影響を与えるか、述べているわけではない。②についても、たとえある知覚的な経験を持つために必要な概念が背景理論によって提供されていたとしても、その知覚的な経験の正当化が背景理論やそれを支えるさらなる背景理論によってなされるとは限らない。ただ、③と④は両立しない。

Väyrynen:ア・ポステリオリ的直観主義が③と④を想定しなければならない理由はない。①と②さえ認めればよいとも思われる。

だが、このような反論は、道徳知覚のようなものが実際にあり、それが非推論的な知識を本当に提供できるのか、別の議論をしなければならない。たとえば、実際に道徳知覚のようなものがあったとしても(実際に我々の知覚の中で道徳的性質の例化が表象されていたとしても)、それが道徳的性質の例化を正当化すると判断できるのは、他の似たようなケースでもそうであるから、といった背景理論によって支えられているかもしれない。もしそうなってしまうとこのような道徳知覚に訴える戦略も、非推論的な知識を提供するものにはならなくなる。

ア・プリオリ直観主義の代表格:W.D.Ross、我々の自己証明的な一見自明な義務に関する知識は、ア・プリオリであり、かつ、非推論的。

Audiによる自己証明性の説明:ある命題が自己証明的であるのは、その命題を理解することによってその命題の正当化を得ることができ、そのような理解に基づいてその命題を信じている場合、その命題を知っていることになる。

ア・プリオリ直観主義の戦略:Sturgeonやア・ポステリオリ的直観主義は個別のケースに関する知覚や観察に焦点をあてているが、たとえそれらが推論的なものであったとしても、一般的な道徳原理については非推論的な正当化を与えることができる。倫理の自律性テーゼによると、道徳的な結論は非道徳的な前提からは導き出せない。このことの自然な説明は、道徳的な結論がア・プリオリな非推論的なものとの考え。

この立場の問題点:ア・プリオリで非推論的な道徳的知識の擁護は難しい。認識論的な基準の問題もある。特に、総合的な倫理に関する命題がア・プリオリに非推論的に知られる、と主張する必要がある。分析的な命題はあまり実質的でない。