Kamonoha World

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Nicholas Sturgeon. What Difference Does it Make Whether Moral Realism is True?

SturgeonによるBlackburn的な準実在論・非認知主義への反論。Sturgeonは準実在論では確保できない実在論的な想定や考えがあると主張する。

実在論の目論見:形而上学的、認識論的な見解の違いを除けば、実在論と同じ主張をすることができる。規範倫理における議論も意義のあることであるとすることができるし、厭世的な影響を人々に与えることもない、など。

道徳的真理や知識に関する扱いについて:

(StevensonやHare, Smartも含めて)一部の非実在論者は道徳的真理や知識の存在を主張する。だが、実在論者から見たら、彼らの主張は、本当の道徳的真理や知識は存在しない、との主張であると理解することができる。これは、彼らが、実在論者が言うような意味での道徳的真理や知識は存在しない、と主張するから。むしろ準実在論者が、どのような意味で道徳的真理や知識という考えを用いているのか、説明しなければならない。

*ちなみに、Sturgeonは自然主義的な道徳的実在論者は帰結主義者になりがちであると述べている。この理由について、そのような論者は、道徳的な社会的な役割について注目しているために、このような理論的コミットメントを持つ傾向性があると述べている。Sturgeonが挙げているのはBrink, Boyd, Sturgeon自身、Coppなどのいわゆるコーネル実在論者。

道徳に関する意見の一致・不一致について:非認知主義者はソクラテスやティラコマコスの意見の不一致などをうまく説明することができない。ソクラテスは正義であるべきだと言うが、ティラコマコスは正義である必要はないと言っている。非認知主義者は伝統的な懐疑論者ではないはず。伝統的な懐疑論者は、我々が道徳に関する信念を正当化することはできないから、道徳に関して真剣な探求を行う必要がない、との結論を下すかもしれない。しかし、非認知主義はこのような結論に至るのを良しとしない。

道徳的説明について:非認知主義者は道徳的説明を受け入れることができない。だが、道徳的説明は一般的なものであり、受け入れられるべき。特に発達心理学(子どもは誠実に(decency)、人間的に(humanity)、育てられた場合、良く育つ、離婚が子どもに与える影響の研究、など)や歴史学において、道徳的説明はしばしば用いられる。

非認知主義者が訴えられる点:たとえば、「太郎は悪い人物だ」といった時に、太郎は次郎を殴ったという点で、悪い、ということは言える(*ただ、太郎が次郎を殴ったのはそれが残酷な仕方であったからだ、ということはできない。それは残酷さが既に価値的な語彙であるから)。

ソクラテスとティラコマコスの論争:ティラコマコスは、正義とは支配者の興味だ、と言う。ソクラテスはこのような正義に関する説明を拒絶する。彼らが正義に関して違う態度を持つのは、彼らの正義の理解が違うから。だが、非認知主義者は、そもそも彼らは正義に関することを論じているわけではなく、他の違うことについて議論している、と理解せざるを得ない。

この点は道徳的説明に関する理解を検討してみるとより明確になる。太郎は不正によって革命運動が助長されたと主張する一方、次郎はこのような説明を否定する。なぜ2人は意見が合わないのか。それは、太郎は不正とはAだと思っているが、次郎は不正はBだと思っているからだ。だが、このような理解は、そもそも不正がAかBかという意見の不一致がそもそも可能でなければならない。非認知主義はこのような意見の不一致を否定している。

実在論者と非実在論者のさらなる違い:

客観的な基準といったものに訴える原理を受け入れられない:例・客観的な証拠によって確証された主張は保護されなければならない。非認知主義者はこのような主張を受け入れることはできない。

④さらなる例:「行為者がその行為が悪いことを知っていたかどうかで、もしくは知ることができたかどうかで、その行為の悪さの度合いは違ってくる」との原理について。

もし非認知主義者が道徳的知識を否定するのであれば、この原理は間違っているということになる。それは、非認知主義者はどのような場合でも道徳的知識を得ることはできないと考えているから。

非認知主義者の応答:この原理を以下のように変えれば受け入れることができる。「行為者がその行為の悪さに関係のある非道徳的事実を知っていたかどうかによって、その行為の悪さの度合いは変わってくる」。

Sturgeonの再反論:非認知主義者は道徳的な概念に訴えることができないから、たとえばなぜ奴隷制度の悪さが明確に強調されていない社会においては奴隷制度を許容することが、それが明確にされている社会において許容されるよりは悪くないことを、説明できない。

⑤さらなる例:理想的な情報を持っている状態で選好するものが価値ある状態、といった理論について

太郎がAをやりたいと今思っていても、彼がBをやる理由がある場合もあると思われる。このことを説明するのに、太郎がもし関係する諸事実を知っていた場合、Bを選好するから、といった様相的事実に訴える場合がある。

実在論者と非認知主義者はこの「理想的な情報」(full information)について、違った理解をする必要がある。実在論者はこの情報の中に道徳的な要素を入れることができるが、非認知主義者は非道徳的なことしか情報の中にいれることができない。こうなると、両者の原理の運用の仕方が違ってくることが考えられる。

⑥さらなる例:道徳的可謬主義について *Sturgeonは他の例については非認知主義者は無視することもできるが、この問題については実際にいろいろ議論もあるので無視できないとしている。

実在論者は我々の道徳に関する考えが間違っている可能性があることを簡単に説明できる。しかし、非認知主義者はこれをうまく説明することができない。

非認知主義者が簡単に主張できること:非道徳的な事実について、意見の不一致がある可能性がある。

この点については異論はない。しかし、この応答は不十分。もし両者が全ての非道徳的事実について意見の一致があった場合、それ以上の意見の不一致はあり得ない、と言わなければならない。このような不一致があった場合、自分の道徳に関する推論の仕方が間違っているかもしれない、といった想定をするべきなのでは?

Blackburnの道徳的感受性に訴える戦略:自分よりも他者の道徳的感受性の方が優れている、だから自分の至った結論は間違っている可能性がある、といった説明を非認知主義者はすることができるのではないか。

Sturgeonの反論:このような感受性に訴えない帰結主義者などはこの戦略を取ることはできないのではないか?

⑦さらなる例:GloverによるHume的な議論、社会的な問題が出る場合に哲学上で提案された仮説は否定される、という原理は間違っている。このことから導き出される考え⇒ある道徳的な結論が拒絶された場合、大変に大きな害がでる、という理由でその結論が維持されるのは間違っている。

実在論者はこの点について自然な説明を与えることができる(道徳的真理はどのような社会的な結果がもたらされるかという観点から理解できるものではない)。しかし非認知主義者はそれができない。

⑧さらなる例:もし非帰結主義を選択してしまった場合、帰結主義を擁護することが難しくなる。

理由1:上述のGloverの原理(たとえ、BではなくAという規範理論を信じること、もしくは受け入れることで、悪い結果がともなったとしても、それはAが偽であることを示しているわけではない)

理由2:もし非認知主義者がBlackburnが主張するような仕方で可謬主義者になろうとする場合(道徳的感受性に訴える)、Gloverの原理について主張することすらできなくなってしまう。

⑨さらなる例:帰結論者は、行為の正しさの理論として帰結主義を提示したとしても、実践的な原理としてはむしろ帰結主義を拒絶するかもしれない。しかし、このような理解は非認知主義者には難しいように思える。