Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

用語の確認 Non-Cognitivism, Expressivism

EmotivismとExpressivismは何ですかと言われると割と簡単に答えられるが、Non-CognitivismとExpressivismって何か違うんですかと言われるとうまく答えられない気がしてくる。一応ここで用語の整理をしておく。

Ayer(1936):Ayerは、「道徳的な記号がある命題に入っていたとしても、そのことによってその命題の事実的な内容(factual content)には何も加えない」「『あなたがお金を盗んだことは悪い』との発話と、『あなたはお金を盗んだ』との間に何ら事実的な違いはない。後者によって私のその行為への不承認(disapproval)を見せている(evincing)に過ぎない」この点についてAyerはこれはトーンの違いであったり、感嘆詞(exclamation marks)を付けているのと同じであり、その話者の持っている情動(feelings)の表れ(expression)だと言う。そして、「盗みは悪い」などは真偽が問える命題を表しているものではなく、自分自身の盗みに対する感情を表しているわけでもないとする。これは、Ayerの理論が明らかに一種の主観主義とは違うものであったことの証左か(本人はそう考えている。それは、主観主義によると、道徳文は道徳的命題を表しているものとされるから、p.112)。ちなみに、Ayerはここで「倫理的感情」(ethical feeling)「道徳的情動」(moral sentiments)といった言葉を使っている(pp. 110-111)。また、Ayerは道徳文には命令(command)といった機能もあると述べている(p. 111)。そして、Ayerはそれぞれの道徳語の意味は、その度合いも含めた、感情の違いによって理解されると述べる。たとえば「良い」という言葉は提案に使われることが多いと述べている。

Stevenson(1944):道徳に関する意見の不一致が起こる場合、信念のレベルと態度のレベルで違いがある。信念に関しては、たとえばある目的のための手段としてどの選択が最適か、といったことに関するもの。だが、そもそもどのような目的が価値あるものなのか、といったことが問題になる時は、信念のレベルでの意見の不一致はあまりない。ただ、この信念は態度を指導する機能を持つ。一方で、道徳判断よって表される態度とは、承認や不承認のために何かを勧める(recommending)こと。この点について、Stevensonは道徳判断は「認知を超える(go beyond cognition)」という表現をする(pp. 12-13)。

Hare(1952):Hareは道徳語を指令的な言語(prescriptive language)であるとする。Hareは命法(imperatives)を叙述(indicatives)に還元する理論として2つの自然主義的な理論を挙げている。1つは発話者の感情の報告。2つ目は一種の予測を表すものとしての説(p.5-8)。さて、Hareはexpressという言葉は、信念を表す、というようにも使われるし、Ayerのevinceという言葉も危ない用語だと指摘する(p.10)。Hare自身はAyerの説を否定し、道徳文は一種の普遍的命法(universal imperative)だとする。たとえば、「喫煙をするべきではない」は「喫煙をするな!」と同じような命法・命令(imperative)ということになる。だが、前者は一般的な原理も想定されているとHareは言う(p.176)。Hareは個別の道徳判断についても常にそれは理由によって支えられているものであるとし、そのような理由は一般原理に基づいていると主張する(p.176)。

Gibbardのもともとの説明(1990):Gibbardは何かが合理的であると言うことはどういう意味であるのか、という問いを立て、それはそれに何かの性質を帰属させることではなく、ある心的状態の表出(express a state of mind)、問題となっていることを許す規範を受け入れていることの表出である、とする(p.9)。

Blackburn (1998):Blackburnは感情的上昇・高まり(emotional ascent)という言葉を使っている。通常の道徳的でない怒りと比較し、ある問題に対して他者と苦しみを共有したり、他の人もそのような苦しみを共有するべきだと考えたり(regard the sentiment as legitimate, compulsory)それを共有しない人に対しては反感の感情を持つようになっている場合( become praprared to express hostility to those who do not themselves share it)が道徳判断の例だという(p.9)。Blackburnは道徳判断・道徳的態度の定義を与えることには懐疑的(pp.13-14)。また表出主義の説明として、主観説と比較しつつ、道徳判断を我々の心的状態を訴えること(voice our states of mind)と言ったり(p.50)、広く公に公表する(avowal)と言う(p.68)。

Alex Miller(2013):非認知主義によると、道徳判断は感情や欲求といったものの表出であり、真偽が問えるものではない。

Sinclair(2009):Sinclairは表出主義を記述主義と区別する。記述主義によると、問題となっているディスコース(発話の連続体)の機能は、世界の在り様に関して記述すること。だから、そのディスコースにおける真偽は、実際に世界がそのようにあるかどうかで決まる。表出主義は、問題となっているディスコースの言語的機能(linguistic function)は、信念のようなものではない心的状態の表出だとする。記述主義と区別できるという意味で、表出主義は、記述するふりをする(pretend)だとするフィクショナリズムや、何かを指令することだとする指令主義と、同じグループに属すると述べる。

Schroederの説明:SchroederはBlackburnやGibbardによる表出主義とAyer, Stevenson, Hareらの理論には明らかな違いがあることを指摘する。それによると、後者は一種のspeech-act理論であった。つまり、後者によると、全ての道徳語を使った文は、それによって為された行為が何か、同定することができるということになる。一方で、Schroederは表出主義はこのよう想定を受け入れる必要はないと言う。Schroederは、表出主義の本質的な主張とは、問題となっている文とある心的状態の間に、express表出という言葉で表される、何か特別な関係がある、とすることであり、その結果が言語行為である必要はないという。まとめると、後者はそれぞれの文を言語行為と結びつけるが、前者はそれぞれの文を心的状態と結びつける説ということになる(p.74)。