Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Paul Bloomfield. Archimedeanism and Why Metaethics Matters (2009)

DworkinやBlackburnなどは,メタ倫理学的な探求は倫理学の一階レベル探究であるとする.そして特にDworkinは,メタ倫理は結局は規範倫理であるわけだから,メタ倫理など行う必要がないと論じる.Bloomfieldはこのような主張に対して反論を試みる.

DworkinによるArchmedean metaethics:ある信念の体系の外側に立ち,その信念体系そのものについて判断する.メタ倫理学は,基本的には,そのような建前で行われている.

DworkinはこのようなArchmedeanなメタ倫理学説は,全て懐疑主義に陥ると主張する.それは,どのメタ倫理学説も,倫理において正しい答えはないと結論せざるを得なくなるから.

一階レベルの主張:人工妊娠中絶は悪い

二階レベルの主張:人工妊娠中絶は悪いと私が判断していることは,単なる私の感情の表出ではない.

メタ倫理の前提:二階レベルの主張の真偽を,一階レベルの主張の真偽を問うことなく,論じることができる.

Dworkin:この前提は以下の2つの条件が満たされた場合,瓦解する.

①二階レベルの主張を一階レベルの主張として解釈できる場合.

②二階レベルの主張が一階レベルの主張から哲学的に分離していることを示せなかった場合.

①の事例:次の3つの主張は全て同じこと(Blackburn)

奴隷は悪い.奴隷は客観的に悪い.奴隷は,真に,事実的に,本当に悪い.

これらはどれも同じことを述べているように思える.Blackburnはこれら3つに意味論的な違いはなく,あるとすればそれは感情的な度合い(emotional temperature)の違い(Ruling Passions, p. 78).

反実在論的な説は道徳における正しい答えはないという含意を持っているように見える.たとえば,彼らは以下のような考えにコミットしなければならないように思える.

(4)奴隷が悪いかどうかに関して,正しい答えはない.

Dworkinは上のようなメタ倫理学的な主張は,結局のところ奴隷の容認であり,一階レベルの主張だと言う.

一方で,実在論的な説は,道徳的命題を真にする道徳的実在に関する整合性のとれた形而上学的な説明を与えることに失敗しているため,結局は上のような「no right answer thesis」に行き着かざるを得ず,懐疑論に陥る,と主張する.

Dworkinへの反論:アルキメデス的なニュートラルな視点は存在しない,という主張自体もメタ倫理学的な主張.

次のような主張は中立を保てるとも思われる.

(7)奴隷が悪いかどうかに関して,正しい答えがある.

(7)は奴隷が実際には悪い場合とも,悪くない場合とも両立する.ただ,これらが一階レベルの主張として扱われる文脈もたしかに存在する.奴隷は悪くなんてない,ということを主張している人に対してこのような主張がなされた場合,(7)は中立的ではないだろう.論点としては,(4)も(7)も中立的に用いられる文脈が存在するということ.

Bloomfieldが提案するメタ倫理と規範倫理の中立性に関する考え:

両者が中立であると考えられるのは,(a)あるメタ倫理学説を保持しつつも,ある規範倫理的な主張xについて,肯定も否定もできる場合,(b)あるメタ倫理学説を否定しつつも,xを真であるとも偽であるとも主張できる場合.

Bloomfieldはこのような意味での中立はある程度保たれていると考える.たとえば,3者が三様共に自由主義的な価値観を持っていたとしても,それが感情の表出であるのか,客観的な道徳的実在との対応なのか,神の指令なのかで,意見が分かれる可能性がある.

ただ,メタ倫理と規範倫理に相互の関係性を認めることもできると主張する.非実在論的な立場から,一階レベルのニヒリズム的な考えに推論を進めることも考えられる.

メタ倫理者が訴えたいこと:道徳の本性(the nature of morality)を真に記述できるということ.あるメタ倫理学説は正しく道徳を記述し,他の説は誤って記述している,ということが言えるということ.

では,メタ倫理は中立性を保ちつつも,規範倫理にどのように関わることができるのか.

メタ倫理学により,意味論や認識論でも論じられている規範性について明らかにされる.これは,この世界においてどのような規範性があるのか,我々がどのようにその規範性と関わっているのか,示すこと.このことが意味論や認識論,倫理学の一階理論に影響を与えないと考える方が難しい.

さらに,以下の4つの仕方でメタ倫理学は規範倫理学に関わることが考えられる.

①道徳の権威を説明することができる.道徳が我々に課している規範とは一体どのようなものなのか,我々に教えてくれる.

②道徳に関する正しい認識論を示してくれる.

③どのような道徳教育が正しいものか,示してくれる.

④道徳に関する意見の不一致について,正しい理解を得ることができる.

①について:道徳の権威に関する考察が一階レベルに全く影響がないと考えるのはむしろ難しい.

②について:メタ倫理学的な議論が,一階レベルでどのようなものを証拠と考えるのかについて,大きな影響を与える.

③について:メタ倫理学説の違いにより,どのような道徳教育が適切か,明らかに変わってくる.情緒主義が真であった場合,道徳は感情の表現だから,といった話になりそう.非自然主義だった場合,道徳は数学みたいなもの,ということになりそう.

④について:メタ倫理学説は明らかに含意を持つ.

そうなると結局のところメタ倫理は規範倫理に対してニュートラルではあれないということになるのではないか?

Bloomfieldはこのような反論に対して,メタ倫理が規範倫理に対して持つ影響はあくまで間接的なものだという.たしかにメタ倫理における議論により,規範倫理がどのように進められるべきか,答えが出される.が,それ自体,たとえば帰結主義や義務論の直接的な擁護にはならない.ただ,どちらかに有利に働くことは十分に考えられる.

まとめ:メタ倫理などなく,全ては一階レベルの主張だとの反論に対しては,明らかに中立テーゼが保たれる文脈があるとして応答.メタ倫理などやっても実際の倫理に何の影響も及ばさないとの反論に対しては,メタ倫理は間接的に規範倫理に影響を与えると応答.

補足:Dworkin(1996)'Objectivity and Truth'における議論

Dworkinはどのようなメタ倫理学的な主張も一階レベルの主張として翻訳できると主張しているわけだが,たとえば,道徳的性質が存在するという主張も,少なくとも正義の行為,正しい行為がある,といった一階レベル(I propositions)になる,といった主張をしている(p.100).

また,Dworkinは最良の説明への推論も,道徳における推論としては不適切だとしている(p.119).

道徳的進歩に関する議論も少しある(p.121).

道徳に関して,決定的な答えはない,という主張も,結局のところ,一階レベルの議論・主張が考慮に入れられたもの(p.134).この点について,法に関するno right answer thesisについても議論している(p.136~).