Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Jonas Olson. The metaphysics of reasons. in The Oxford Handbook of Reasons and Normativity.

規範的理由に関するサーベイ的な論文.メタ規範的な問題は,理由とは何か,という問いではなく,理由的関係とは何か,という問いが中心的であると論じる.Parfit, Skorupski, Schroederらの提案を検討する.

通常,理由は事実として理解されている.事実とは何か,という形而上学的な問いは(真である命題?命題を真にするもの?抽象的な性質によって構成されているもの?),ここで置いておく.

私が頭痛で苦しんでいるという事実は,あなたが私にロキソニンを与える理由である,と言うことできる.このような主張に関して,特に難しい形而上学的な問題は発生していないように見える.しかし,ある事実が何かの行為や態度のための(を支持する)理由であるという性質を持つとは,どういうことなのか.このような性質を理由的関係と呼ぶことにする(reason relation).このような理由関係についての形而上学はどのようなものなのだろうか.

*このような問いを考えるにあたり,Olsonは伝統的なメタ倫理学の図式を用いている.理由に関する形而上学が問えるのは基本的には実在論的な立場.一方で,表出主義などの反実在論的な視点から考えると,理由の形而上学といったものは何も問えない.というのも,私が頭痛を感じている,という事実が,あなた私にロキソニンを与える理由である,という主張は,何らかの非信念的な態度の表出であり,そのような理由関係を表す(represent)するものではないから.

表出主義が実在論者と同意できること:理由が原初的なものであるということ.何かの行為の理由が事実であるということ.

同意できないこと:ある事実が何かの行為の理由になっているという判断は,その事実が持つ理由的関係・性質を持っていることを表している,ということに関して.

Parfitの非形而上学的認知主義について:

Parfitは理由関係は時空間にも存在しないし,時空を超えた世界に存在しているわけでもないが(2011, p. 486),しかし,様々な事実が理由であるという性質を持っていると言う.これは一見矛盾しているように見える.この点について,どのように理解すればよいのだろうか.

この点を説明するの際して,Parfitは「存在する(exist)」「ある(there are)」という言葉がいくつかの異なる意味をもっていると言う.具体的な個物が存在しているといういう時の意味は,時空間に存在しているという意味であり,狭い意味.その他の可能な状況が存在するといった時の意味は,このような狭い意味ではなく,広い意味での「ある」であり,存在論的な地位は低い(a lesser ontological status).Parfitは抽象的なもの(abstract entities)は非存在論的な意味で存在すると述べる.これは,抽象的なものは存在論的な地位を持たないことを意味する.規範的性質も抽象的なものと同じように存在論的な地位を持たない.これは,それらが実際的でなく(actual),また単に可能ということだけでもない(possible),本当でも非本当(real, unreal)でもない.そしてParfitは以下のような静観主義(quietism)を打ち出す.規範的真理があるかないかを問うにあたり,我々は存在論的な答えを提示する必要がない(2011, p. 487, pp. 479-480).

Parfitの主張の問題点:あるものが存在論的な地位を持たずに存在するという主張は理解することが難しい.また,realでもunrealでもないものを想定することも難しい.

Parfitの議論(2011, p. 721, p. 725):

(E)W氏に設計された城があったが,その城は実際には作られず,決して実際には存在していない.

もし「存在する」という言葉が一義的なものであるならば,(E)は次のような意味を持つことになる.

(S)ある城が制作され存在するはずだったが,この城は作られず,そして全く同じ「ある」「存在する」という意味で,この城は決して存在しなかった.

(S)は矛盾している.だからもし(E)が意義あるものであるという主張をしたい場合,存在の多元主義をとらねばならないとParfitは主張する.これは,単に可能なものも存在論のリストに入れたい場合,我々は存在の多元主義をとらねばならないということ.

Olsonの反論:単に可能なものの存在に疑義を向ける論者が問題にしているのは,それらがいかに存在するか,ではなく,それらが持つ本性・性質について.だからParfitの反論は有効でない.数学的性質のプラトン主義者に反対する人も,規範的性質の非自然主義に反対する人も,それらが非存在論的な仕方で存在するものであると言われれば,受け入れることができてしまう.

結局,Parfitが想定する世界観と,Mackieが想定する世界観が同じになってしまうということなのだろうか.

Parfitの他の議論:規範的真理が世界のあり方を決めるのであり,世界のあり様に規範的真理が依っているわけではない,という主張(2011, p. 749).この主張もどこまで存在論的なコミットメントを持たずに擁護できるのか,不明瞭.

Skorupskiの認知的非実在論(2010):

SkorupskiはParfitのような戦略を取らず,本当のものだけが存在すると主張する.そして,ある性質はそれが因果的地位(causal standing)を持つ場合のみ,存在すると主張する.ある性質が因果的地位を持つとは,その性質を持つ対象が,その性質を持っていることによって,他のものの因になったり,他のもののによって因果づけられたりすること.

Skorupskiは規範的性質は上のような地位は持っていないとする.にも関わらず,理由の非実在論には陥らない.それは,因果的地位を持たず,ゆえに本当のものではないが,にも関わらずあるものはあるから.たとえば,創作上のものなどはその一例.理由に関する性質もこれと同じ意味であるとSkorupskiは考えている.

Skorupskiは伝統的な直観主義者は規範的事実が因果的効力を持つという考えを持っているが,これは歴史上のイギリス直観主義者や現代の非自然主義者双方が否定すると思われる考え.

Skorupskiは付随性を否定している(2010, p. 449).

自然主義的な理論:

Sturgeon流の非還元主義的な説:

問題点:①理由に訴える因果的説明を見出すのは,たとえば徳に訴える因果的説明がある程度見込みがあるものとは違い,困難であるように思われる.②この種の自然主義と非自然主義者の違いは,理由関係が自然的性質であるか否かという問題.だが,そもそも理由関係がどのようなものか,わからない現状を鑑みると,そのことを問わずして理由関係が自然的性質か,非自然的性質か,問うてみてもあまり発展がない.

Schroederの還元主義的な説:

Olsonの観察:理由への転回も,メタ倫理学において問題になってきたことと同じ問題に直面する.