Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Yair Levy. Intentional Action First. 2013

Williamsonが認識論において行ったknowledge firstのプロジェクトを行為論においても行うべきであるとの主張.意図的な行為は分析不可能なものであり,意図的な行為によって,行為論において議論されている様々な考え,たとえば行為(action)や自発性(voluntariness)も説明できる,という提案.Davidson依頼,行為は心的状態と身体的動作の組み合わせだと思われてきたが,Levyの提案はこのようなスタンダードな考えへの反論.

Anscombeの問い(Intention第5節):意図的な行為と単なる身体的な動作の違いは何か?

理由?:意図的でない身体的な動作も何らかの理由に沿ってなされている場合がある.狼を見て身構えたとして,これは意図的な行為ではないかもしれないが,本能的に身を護るための動作という理由はありそう.

還元的な答え:意図的な行為が特徴的に持つ物理的,心的要素を明らかにする.身体的動作+意図 or 欲求 + 信念.心的状態が行為の(動機的)理由.とっさの行動には,意図やそうしたいという欲求はない.だから,理由に沿って為された行為ではない,と言うことできる.

還元主義の課題:単に意図や欲求,そして動作があったからといって,意図的な行為が常にあるとは限らない.意図や欲求によってその動作が発生していなければならない.だが,この両者の関係を説明することは簡単な事ではない.

還元主義の典型:因果説.心的状態は行為を引き起こす.

逸脱した因果連鎖の問題(deviant causal chains):Davidsonの登山家の例など.たしかに意図したことが起こったが,それが意図的な行為とは呼べないような事例がある.

逸脱因果の問題を解決するために,様々な修正が行われてきた.だが,そもそも因果とは何かということに関して大きな問いがあるため,この修正はなかなか実質的に進められない.

*目的論的な説明?→因果説と両立すると思われる.目的論によると,ある人が意図的に行為したのは,その人が何かの目的のために行為した時.そのような目的に関する信念や意志などが,行為を引き起こした,と考えることができる.

行為者因果(agent causation)も同じような理由であまり関係ない.

認識論においても同じような還元的な試みがなされ,それが困難に陥っていた.ゲティアー問題を解決させる正当化と真理の関係を説明するのは難しい仕事.

認識論におけるWilliamsonの提案:知識を他の認識論的な考えによって分析・説明するのではなく,知識によって他の認識的な考えを説明・分析する.

因果説のもう1つの問題(Lavin, Must There be Basic Actions?):因果説によれば,因果的行為が基礎的な行為とされる.因果説は,家を建てる,といった時間的に先行して起こった行為がない目的論的に基礎的な行為が何か説明する必要があるが,そのような基礎的な行為はないとする考えもある.

*目的論的に基礎的な行為と,因果的に基礎的な行為の関係をどのように考えるか.もし前者を後者によって還元することができるならば,因果説の支持者はLavinの反論に答えることができる.だが,Levyの反論はこの論争に依らない.

Levyによる説明項としての意図的な行為の擁護:

Levyは単に自発的な行為(merely voluntary action)なるものが通常の議論において見過ごされていると主張する.

自発性を志向性(intentionality)と同一視する傾向に対して:意図的な行為とは言えないが,自発性は持っているものが様々に考えられる.何かを始めたものの目的を忘れてしまった場合,誤って下を噛んでしまった,誤って誰かの足を踏んでしまった,髪の毛をとかす,など.これらは何かの目的のために行われているわけではないが(意図的ではない),これらの行為を行う際,我々は完全に意識的である.

多くの論者は,行為は何かの理由のために行われるもの,という想定をしている.しかし,上のような単に自発的な行為は,理由のために行われたものとは言い難い.

Levyによる行為の説:Aが行為者Sによる行為であるのは,必然的に,以下の場合,かつ以下の場合のみ,である.SはAをすることに含まれている動作を意図的にやめたり,続けたりすることができる能力(capacity)を持っている.

この説によると,ある動作のタイプ(歩く,話す,ウィンクをする)などは,場合によっては行為になり,場合によっては行為ではないということになる.つまり,あるタイプの動作が常に行為とはならない,という考えである(行為の個別主義とでも言うべきか・・・).