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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Jonathan Dancy. Action in Moral Metaphysics. New Essays on the Explanation of Action. (2009)

近年の道徳哲学においては形而上学的な考察が盛んに行われている。一方で、Dancyは、行為論における議論に行為の形而上学は必要ないと主張する。Dancyは、行為というものは、形而上学的にいって、何か他から独立した存在と考える必要がないと主張する。

Dancyの課題:行為と行為者の明確な理解。行為者によってなされたこと、つまり行為を呼ばれるものとは、いったい、どのようなものなのだろうか。

Dancyによるイギリスの道徳哲学者たちの仕事の紹介:彼は1930年代に行為、意図、動機、結果の関係について、優れた仕事を残しているとDancyは言う。

彼らの問い:動機は意図とは違うものなのか?意図は動機と同じように、要素的でない行為の原因なのか?

現在の問い:行為とはどこで止まるのか、どこまでなのか。そして、どこからが行為の結果なのか、といった問いはあまり彼らによって議論されていない。

彼らの方法:行為は次のものと分けることができる。動機、それによって行為がなされた。理由、それのために行為はなされた。意図、それと共にその行為はなされた。結果、その行為によってもたらされるもの。動作、その行為によって作られたもの。これら何らかの方法でうまく位置付けることができる、という想定のもと、議論が進められていた。

Dancy:この方法が本当に適切なものなのかどうか、明確でない。たとえば、この方法を突き詰めていくと、結局行為は身体的な動作でしかない、という結論になってしまうかもしれない。この方法が適切なものであるのは、実際にこのような区別ができる場合(形而上学的に?)。

むしろ、このような方法を採用した場合、他の要素から独立して存在する行為なるものがないという驚くべき結論にいたるかもしれない。

例:行為と意図の違いを示すために、意図したこととは違うことを行った、という状況を想定してみる。その場合、行為の側(意図はされていないが行われたことの側)に結果という側面を与える必要が出てくる。彼女を驚かそうとしたが、結局自分がみじめな思いをする結果になった、など。さて、では、結果と行為を比べてみる。この場合、行為の側に意図に関する側面を見出すことになるだろう。これにより、行為とは目的を持ったものであり、意図された結果と、実際の結果を区別するだろう。だがこのように考えてくると、ここで言及された、意図と違うものとしての行為と、結果と違うものとしての行為は、違うものである、ということになる。

Hornsbyの行為の説に関する検討:

Hornsby:行為と為されたこと(the thing done)を区別する。行為は個物。私が今この文章を打っていること、など。為されたことは個物ではない(普遍者ということ?)。タイピング、食べること、杖をなげること、など。行為は様々に記述することができ、そのどれかだけが正しいわけではない。一方で、為されたことは個物ではなく、ただ一つのことしかそれについて言えない。その意味において、その要素がその本性を占めているということになる。

DancyはHornsbyのこのような行為の理解の仕方は、彼の行為に関する分析の動機である、我々の評価の構造を明らかにするという目的に適していないとする。

為されたことが普遍者だった場合、我々はその普遍者に悪さを帰属させる、ということになるのか?Dancyはこの含意を否定する。たとえこの普遍者の全ての例化が悪さを持っていたとしても、この普遍者自体が悪いということにはならない。

行為者、行為(the doing)、為されたこと(the thing done)の区別による分析:この3つのものに道徳的性質を帰属することはできそう。何かをした行為者は悪い、それをすることは悪い、為されたことは悪い、など。

ただ、Dancyはこのような区別は形而上学的な分類ではなく、単なる文法上の分類であると主張する。

為されたこと、として行為を理解してみる。その上で、この行為の要素は何か、何が偶然的なもので、何が必然的なものか、検討してみる。(明らかに形而上学的探究)

誰かによって為されたもの?

他の理由のために為されることもあり得た?

他の意図によっても為されることがあり得た?

他の動機によっても為されることがあり得た?

他の時間、場所でも為されることがあり得た?

他の仕方によっても為されることがあり得た?

*行為の様相に関する直感:この行為は違う行為にもなり得た。

もし行為が個物であった場合、つまりこれらの問いを形而上学的なものと理解した場合、これらの問いに対する答えは全て「No」。ある行為は、これら全て(の個物)を持つもの。

もう1つの考え:行為は関係である。行為者、状況、他の行為、他の出来事との関係。ある行為が偶然的なものを持つのは、それが関係するものが偶然的なものを持っているから。ある行為は実際には雨の中で為されたが、晴れ間の中で為されたかもしれない。つまり、雨の中で為された、というのは偶然的なもの。この偶然性は行為そのものが持つものではなく、行為が他の出来事との関係の中で持つもの。こちらも、ある行為は、他の事が同じでない限り、同じものにならない、という考えになる。

Dancyはどちらの考えにも反対する。

Dancyの議論:行為に関する様相的な言明は真である。これらをうまく説明するのは、上のような形而上学的な行為の理解ではない。なぜならば、上のような行為の形而上学的な理解によると、行為に関する様相的な言明は偽になってしまう。

Dancyは行為に関する言明は内的な目的格(internal accusative)として使われていると理解すれば、様相的な言明が真であることを説明できると主張する。

Dancyの結論:行為に関する同一性の原理は存在しない。そもそも、行為に関する形而上学的な探求はあまり意味がない。行為やあることが為されたといった言い方は文法上の言い回しであって、それ以上のものはない。ただ、これは行為はない、などと言う結論には行き着かない。行為はあるし、それは行為者によって為されるものである。そして、その行為は性質も持っている。

行為している、という意味での行為はどうか。Dancyはこの行為していると表現されるものも個物として理解できるという。ただ、行為している、ということは通常あまりなされないので、これが個物である、これが様相的な変化を持ち得る、などといったことはあまりいいにくい、ということがある。

この結論の問題点:行為の同一性は常に問題になる。たとえば、Davidson以来、行為の個別化は常に問題になってきた。さらに、裁判においてもこの行為がいわゆる殺人であったのか、正当防衛であったのか、といったことは問題になるが、これは行為の同一性を問うているもの。これらを全て放棄するということになるのか。

Dancyの応答:動詞には2種類ある。数えられる動詞と数えられない動詞。数えられない動詞についての同一性を問うことはできない。2度の射撃があったかを問うことはできるが、射撃が殺人と同じ行為であったかは問うことができない。2つのことを行ったとは言えるが、2つの行為を行ったとはいえない。

*Jonathan BennettがThe Act Itselfの9節で同じような議論を展開している。

 行為のデフレ主義の含意:「彼は、悪い理由のために、正しいことをした」=「彼が正しく行為したが、それは悪い理由のためだった」

これらを正しく理解するにはどうすればよいのか?デフレ主義はこれを正しく理解するための道具立てを我々に与え得るのか?

反デフレ主義は行為に形而上学的な説明を与え、それを評価の対象にしようとする。デフレ主義はこのようなプレッシャーを受ける必要がない。

ある状況を記述する様々な厚い評価語が与えられた。我々はこれらを1つの薄い評価語によってまとめるよう促されるが、このような促しは哲学的な偏見でしかない。様々な厚い評価語に評価があり、それ以上のものはない、という場合もある。

行為と行為者を区別しなければならない道徳的評価があるのか?:典型的な事例は、行為者は悪くはなかったが、行為は悪かった、もしくは、行為者は悪かったが、行為は正しかった、という場合。

このような事例を説明する道具立てとして典型的なのは、主観的・客観的評価の区別。行為者が避けられないような誤った信念を持っていた場合、など。だが、この区別は、行為と行為者の区別によって基礎づけられると考えるべきではない。