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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Rowland Stout. Action (Central Problems of Philosophy). (2005)

*行為の形而上学的な地位とその道徳的評価の関係はどのようなものになっているのだろうか。行為をある仕方で形而上学的に理解した場合、道徳的評価の対象にはなり得ない、ということがあるのだろうか。

第1章:行為や行為者が意図的に行為するとはどういうことなのか、意図的な行為とそうでない単なる動作を分けるものは何か、これらの問いに答えようとしているのが行為論であり、行為の哲学。この問いに答えるにあたり、2つの戦略が考えられる。1つは行為者の内的な側面に焦点あてるもの。これによると、ある行為が起こっている場合、その行為を為した行為者が信念、欲求、意図、知識などの心的な状態であったり、心的行為を行っている必要がある、とする説。もう1つは、行為は行為者の外にある環境への何らかの反応の仕方、たとえば理由への反応、といった外的な要素から行為を特徴づける戦略。

デカルト的な悪魔仮説が示しているもの:行為者は、物理的な動作を行うことができなくても、心的行為を行うことはできる。考える、意志する、疑う、など。

デカルト的な考えの行き着く先:主意主義(voluntarism)、行為者が直接的にコントロールできるのは行為者の心的な側面のみ。⇒全ての意図的な行為は心的行為を必要とする。

行為論からの反論:歩くという動作は行為であるように思える。だが、かくかくしかじかのように歩くように意志する、といった心的行為がなければ歩けないということはなさそう。

合理性と因果律を巡る問い:行為の要素として理性、合理性に訴えるという伝統がある。アリストテレスやカント。ただ、合理性を心的状態に関するものと考える場合、外的なアプローチであるはずの合理性から、心的状態という内的なものに戻ってくるということになる。また、行為は厳然と世界に存在するように見えるが、それを非行為と区別するものが合理性や理由、理性といったものであった場合、そのようなものを宇宙の中にどのように位置付けるかという難しい問題が残される。理由と因果が共にあると考えることは難しそう。