Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Jennifer Hornsby. Basic Activity. Proceedings of the Aristotelian Society Supplementary Volume (2013)

行為の形而上学に関する2つの考え:

デイビッドソン流の行為を出来事だとする考え。行為者は出来事記述によって説明できるとする説。

②他の考え:行為者は出来事でもあり、過程(process)でもある。

②によると、行為が起こるには過程がなければならないということになる。マイケルは学校に行った、という行為があるには、マイケルは学校に行こうとしていた、という過程がなければならないということになる。このような過程がなければ、行為者が能動的(active)であると考えることができない。このような考えは近年ではマイケル

・トンプソンによって提案されている。

*ちなみに、行為論における基礎行為と、認識論における基礎信念を比較検討したら、何か面白いことがわかったりするのだろうか?【以上】

ホーンズビーはこの論争に関して後者に組する。その上で、トンプソンがいわゆる基礎的行為(basic action)を否定するような議論を展開している点について、反論を加える。本論文はホーンズビーによるトンプソンへの反論という性格を持つ。

*基礎行為の役割:行為者因果を巡る問題の中で(Lowe, A Survey of Metaphysics、p. 198より)

止める、押す、切る、殺す、などの行為者の因果性を表しそうなものは、常にそれがどのような仕方でそうなったのか、問うことができる。その意味で、これらは基礎的ではない。これらは、その方法をさらに示すことができる(毒をもったのか、ピストルをうったのか、ナイフで刺したのか、など)

一方で、足を挙げる、手を振る、などは、他の説明を必要としないから、その意味で、基礎行為と考えることができる(Danto, 'Basic Actions', Analytical Philosophy of Action, ch. 2)。たしかに、手をあげるには、手の筋肉、骨の動きなど、様々な動作が必要だが、それらは行為者が手を挙げることによって起こっており、説明の向きは逆ではなさそう(p.199)。

これらは出来事因果では分析できそうにない。タロウが手を振った、という行為の原因となった出来事を同定するのは難しそう。タロウの動作は行為者によって直接なされたと考えるのが自然。

Davidsonの反論:基礎行為の原因となっているのは心的出来事。たとえば、手を振ってある人を振り向かせたいという欲求を持っていたことが、タロウが手を振った原因。

Loweの応答:そうなると、ある理由のために行為をする、ということができなくなってしまう。信念や欲求に指導(guide)されることはあると思われるが、それらが行為の原因であった場合、それらを理由として合理的に選択することができない。行為者の決定や意志などを原因としたとしても、そもそもそれらが何によって起きたのか、説明しなければならなくなる。どこかで基礎行為を想定しなければ自由意志の問題に答えることができないのではないか。【以上】

出来事は、再生不可能な個物。「ドナルドがライトをつけた」という出来事は、その時

その瞬間の出来事であり、似たような出来事が起こることはあるが、全く同じ出来事は起こらない。

出来事は完了形で表される。ドナルドはライトをつけた、ジョーンズはトーストにバターを塗った、アダムはリンゴを食べた、など。

一方、人間の行為者性(human agency)に関する事実は、何かが起こっていること(出来事の記述)以外でも行われている。たとえば、「ジョーンズはバターを塗っている」、という記述。まだ完了していないことが表されている。後者は出来事の記述ではなく、活動(activity)の記述のように見える。

ホーンズビーの提案:ある行為があるということは、それに対応する活動がある

*ある行為があったとしたら、その行為の原因となった出来事がある、という考えとの対比はどうなるのか。ホーンズビーはおそらく違う考えであると考えている。【以上】

では、活動とは何か。活動は出来事とは違い、抽象的なタイプであり、行為によって例化されるものだとホーンズビーは主張する。つまり、あるタイプの活動は、様々な時に、様々な異なる人によって、行われる(engaged)ということである。

活動にも2つの意義(sense)があると思われる。1つ目は、時間や人が変わっても為すことができるもの。2つ目は、今起こっている活動(on going activity)。これは、時空間に実際に存在するもの。ジョーンズがバターを塗っているという今起こっている活動は、実際にジョーンズがバターを塗っている時のみ、時空間に存在するということになる。

写真による比喩:起こっている活動には始まりがあり、そして、終わりがある。それは写真によって撮っていくことができるようなもの。

活動がなくなった時、ある出来事が起こっていた、ということになる。

行為については、その行為を何度やったのか、問うことができる。しかし、活動については、その活動を何度やったのか、問うことはできない。我々が問うことができるのは、その活動がどれほど続いたのか、ということ。

この考えが含意すること:行為はある瞬間において起こっているわけではない。ある活動がある一定の時間なされてはじめて行為を形成する出来事が起こったということになる。

ホーンズビーの主張:起こっている活動は数えられるものではなく、出来事のように個物ではない。だがこの主張に対して、活動も数えることができるという反論があるかもしれない。このような反論に対して、2つの応答ができる。

1つは、起こっている活動は、いくつかの異なる活動によって形成されている可能性があるということ。ある人が机から立ったとしよう。この人は、机から立つという活動と、部屋の電気をつけるという2つの活動を行っている可能性がある。その意味で、活動を数えることはできる。だがこれは、違う活動があると言うことを示しているだけであり、同じ起こっている活動を数えているわけではない。

2つ目は、活動の伸長(streches)があるという場合。

活動と行為、また他の出来事との関係について

ホーンズビーは、行為を出来事であると考えてしまうと、活動をうまく適合できなくなってしまうと主張する。*ホーンズビーによる出来事説への反論。ホーンズビーは基本的に出来事説に反論を加えようとしている。【以上】

行為を出来事と考えた場合、ホーンズビーが主張するような活動は、ある行為が起こっていることに過ぎない、ということになる。ある行為者がある活動を行っているというのは、その行為者がそれに対応する行為を行っているということに過ぎない、ということ。

このような主張に対してホーンズビーはいくつかの反論を用意する。

あるタイプの活動があっても、そのタイプの行為がない場合がある。アンは1マイル走ろうとしたが、疲れてしまい、走れなかった。この場合、アンは1マイル走ろうとしていた、という活動はあったことになるが、アンは1マイル走った、という行為は行われなかったということにある。

*活動と試み(try, attempt, Ruben?)の関係はどのようなものになるのだろうか?

アンのケースや、1マイル走ろうと思って実際に走ったべスのケース、途中まで走ってから1マイル走ろうと決めて1マイル走ったクレアのケース、息切れするまでは走ろうと思って結果的に1マイル走ったドーンのケース。これらの事例を用いて、ホーンズビーは行為と活動が違うことを論じていく。行為に関する一般的な理解は、ある行為があるのは、行為者が何かの目的・目標を実際に果たした場合。このような理解に従うと、べスとクレアは、1マイル走る、という行為を行ったことになる。ところが、アンとドーンは1マイル走るという行為を行っていないことになる。

ドーンの事例を巡って:ドーンが行っていたのは、健康のために息切れするまで走る、という活動。このような活動は、行為のような最終地点があるわけではない。

行為に関する問い:「そのことをやるためにどれぐらいの期間を費やしたの?」問われている「そのこと」は行為を指す。

活動に関する問い:「そのことをどれぐらいの期間やっていたの?」問われているのは活動。

ホーンズビーはこのような活動に関する理解によって、我々は何かを、他の何かをすることによって、行っている、というトンプソンの主張を退けることを目指す。*基礎行為を巡る議論との関係。【以上】

トンプソンの提案:ある行為者xによるAが意図的な行為であるのは、Aを行ったことによって説明できる他の何かの行為を行った場合のみである。この場合の説明は合理的な説明である(rationalization)。

トンプソンの議論:AからBへ意図的に石を動かした場合、私はAとBの間にあるCという地点にも石を動かしたことになる。だから、私はAからBに石を動かした、という主張が真であるのと同様に、私はAからCに石を動かした、という主張も真になるはずである。ここから、AからBへ石を意図的に動かしたことと同様に、AからCに意図的に石を動かしたということができ、であるならば、私が石をCに動かしたのは私が石をBに動かしていたからだと説明することもできるように思われる。

ホーンズビーの反論:トンプソンの議論では、AからBに石を動かすことは、その間にあるあらゆる地点(Cなど)に石を動かした無数の意図的な行為の集合ということになる。ホーンズビー風に考えると、これはある活動に行うことはそれを成立させる様々な行為をするということになる。だがこの考えは正しいようには思えない。たしかに、もし行為者が事前に石をAからBに動かすためにはCを通過しなければならないと知らされていたならば、その行為者は意図的に石をCに動かしたことになるのかもしれない。しかし、たとえ行為者がこのことを知らなくても、行為者はAからBに石を動かすことができる。あるC地点のことを知らなくても石を意図的に動かすことはできるように思えるから、行為者がCに石を意図的に動かしたと考えることはできないだろう。

ある行為をすることによってなされるわけではない活動もあるので(1マイル走る試みを行ったものの、結果的に走れなかった場合、など)、その意味で、他の行為によってなされるわけではない基礎的なものがある、このことを信じる論者はトンプソンの議論の結論(全ての意図的な行為は何かをなすために行われるもの)を受け入れることはできない。

ホーンズビーによるラビンへの応答:何らかの行為・活動が始まるには、何らかの基礎的な活動がなければならない。

公園に歩いていく例:歩き方や公園への行き方、公園の場所を知っていさえすれば、行為者は公園に意図的に歩いていくことができる。ここでホーンズビーは目的(end)と手段(means)を引き合いに出す。目的が公園に歩いていくこと、そして歩き方や公園の行き方に関する知識が手段だと言う。

目的があり、そこから実践理性により、必要な知識が運ばれる(deliber)。知識は行為が行われる中で得られる、という考え(knowledge is acquired in the course of action)

実践推論(practical reasoning)はそれを行うための手段に関する知識を必要としないことで終息する。ある時点で行為者が持つ行為は、その行為者が実際にその時に行っていることを可能にするものである。そのような手段によって、それ以上に知識が必要のない何か基礎的なことを行っていることということになる。だから、行われている活動は常に何らかの基礎的なタイプということになる。あるタイプの活動を行う技能(skill)を持つということも、その行為に関する手段と目的の知識を有さなくてもそのような活動を行うことができるということを示唆する。

 【ここまでの議論のまとめ】

行為を巡って、それを出来事として理解する出来事還元主義者と、それに対抗する非還元主義者がいる。この対決が実は最もよく出ているのは、ホーンズビーとトンプソンの行為を巡る議論。トンプソンは、ある活動なるものがあったとして、それは、出来事として理解することができる行為の集まりであると考えている。ホーンズビーはそれに同意しない。それは、出来事としての行為に還元できない基礎的な活動があるから。それをアンやドーンの例が示している。我々が端的に行うことができる基礎的な活動があるとすれば、それも一種の行為者因果の範疇に入るのかもしれない。