Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

David Hillel Ruben. Trying in Some Way. Australasian Journal of Philosophy (2013)

ある行為者が何かを試みている(trying)、という表現は、何らかの個物(particular)を指していると考えられている。この想定にたった上で、では、この表現で指される個物が、どのようなタイプの例化であるのか、議論が分かれる。心的な個物なのか、脳の状態に関するものなのか、それとも物理的な行為のタイプなのか。ルーベンはこの想定自体に反論を試みる(試みを一種の個物として捉える前提)。

*ルーベンはその後の2016年の論文で、このような想定をreferential viewsと呼び、それに代わるものとして、subjunctive conditional viewを提案している。【以上】

ルーベンの狙い:①試みや意志の働きといった形而上学的なものを想定することなく、何かを試みる、何かをしようとする、という文を説明するため、②この想定が必要とする指示説(reference views)にかわる考えを提案するため。

行為者が何かを試みる場合、典型的に行為者はある種の心的状態を持つ。信念、欲求、意図など。では、この中で、試みることは、どのような貢献をするのだろうか。

⇒行為者がこれら全てを保持していたとしても、まだ実際に行為していないことが考えられる。試みて初めて、行為者は行為することになる。つまり、これら3種の心的状態と行為を結ぶものが、試み、ということになる。

試みを巡る議論は、行為者がφすることを試みることなく、φすることができるか、といった問いに注目が集まってきた。一方で、ある個別の行為がなくても試みがあるということがあるかという点は、それほど論じられてこなかった。

彼は窓を丁寧に開けるように試みた、という文で用いられている副詞(丁寧に)はモード副詞(mode adverb)と呼ぶことができるもの。ここでこの副詞が修飾しているのは窓を開ける行為であり、試みではない。つまり、この文は、試みに関することだから、たとえ窓を開ける行為が丁寧に行われなかったとしても、真になり得る。試みと行為を分離できる一例。

蛇口を騒々しく止めることと、蛇口を騒々しく止めることを試みることとは、なぜ同一ではないのだろうか。

ルーベンの同一説への反論:

①あることを試みたが、まったく何の行為もできなかった場合や、その行為に失敗する場合もあるから。

②何かを試みることは、しばしば、あることのためにある個別の行為を行うこと。となると、試みることとは、その手段的な行為(by act)と同一であるということになる。しかし、手段的な行為とそれによって為される行為とは決して同一ではない。

③何かをするために2つのことなることをしなければならないとしよう(蛇口を止める、水位を下げること)。そして、この行為を決然と、そして騒がしく、遂行しようとしたとしよう。さらに、水位を下げることは決然としていた、蛇口をとめることは騒がしいとしよう。さて、このような状況において、水を止めることを試みる、という行為は、どの行為に同定することができるだろうか?ここでは、水位を下げることと、蛇口を占めることは、違う行為である。だから水を止める試みは、これらと同一ということにはならない。

*いみじくもルーベンはこの議論をする際にactivityという言葉を使っている。使い方としては、試みとactivitiyは同じものの様子。【以上】

試みを、水位を下げる行為と、蛇口をしめる行為を部分として持つ、1つの行為と同一のものと見なすことはできないのだろうか。この考えに対するルーベンの応答は、2つの行為の総和も行為とは限らない、それは2つの人格の総和が人格ではないのと同じように、というもの。

たとえ2つの行為から成り立つ1つの行為があったとしても問題が残る。後者は前者を持つことによっていくつかの性質を持つと思われるが、たとえば、騒々しさは前者においては少しの間だけかもしれないが、後者においては行為全体が騒々しいということにならなければならない。メレオロジカルな和は、その部分が持つ性質を持つとは限らない、という問題。であるならば、性質を実際に持っている試みという行為をメレオロジカルな和として考えることはできない。

 行為者が何らかの基礎行為を試みようとして、失敗した場合。この場合、どのような行為も起こらなかったということになる。しかし、試みはあったと言いたい。【裸の試みnaked tryingのケース】

麻酔患者の事例:患者は自分が実際には足を動かしていなかったことに驚いた。もし試みが意図することと同一であったら、少なくとも意図はしていたわけなので、驚くということはないと思われる。

ルーベンは、試みは何らかの性質を持つ(qualification)としているから、裸の試みの存在は問題になるかもしれない。実際はどのような行為も行っていないが、彼は丁寧にその行為を行おうとした、という表現は真であり得るのだろうか。ルーベンとは、時空間に関わる性質を裸の試みは持ち得ると考えている様子。