Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Matthew Soteriou. Introduction. in Metal Actions (2009)

 

心的行為について考える場合、最初に考えるのは、心的行為とは我々の様々な心的活動のどの部分を含むものなのか、という問い。

Peacocke:judiging, deciding, acceptings, attendings to something, calculatings, reasonings, and tryingsこれら全ては心的行為。

G. Strawson:たしかに心的行為と呼ばれるものはあるが、Peacockeが挙げている多くのものは心的行為ではない。

Strawson:pure observer doing juding and reasoning without making any action at all. 

O'Shaughnessy: Strawsonとは違い、そもそも意識を持っていること自体が一種の行為と考えることができる。意識を持つこととは、心(mind)が積極的に注意や思考の過程をコントロールしているということ。つまり、意識の必要条件が心的行為という主張。

我々が何に注意したり、何を考えるか、たしかにそれは我々次第であるように思える。何について考えるか、たしかに我々は我々自身で決めることができるように思える。では、このようなことを心的行為を巡る議論の中でどのように位置付ければよいのだろうか。

Strawson的な一つの考え:間接的な関係(indirect)、考えなどは、それによって考えられている命題的内容が、行為者によって意図して考えられたときのみ、心的行為である。ところが、この考えによると、行為者がその命題的内容を意図する前にその考えが発生するということは考えにくい。

判断(judging)と発話(talking)の比較:

(判断を主張(assert)の行為だとする考えもあるが)両者において意図がどのような働きをするのか考えてみると、両者のアナロジーが瓦解することがわかる。Pであると判断することで、Pであると主張するように選んでいるのかもしれない。一方で、φするという意図を形成することで、その意図を表現することを選んでいるのかもしれない。だが、Pであるとの判断や、φしようと決めること自体は意図されたものではない。Pであるかどうか判断することを決めたり、φする意図を持つことを決めたりすることはできるかもしれないが、Pであると判断したり、φすることを自体を決めることはできない。

広く認められている考え:O'ShaughnessyやPeacockeですら、心的状態の内容を決めることはできないと考えている。しかし、直接的な思考(direct thinking)のレベルにおいて、彼らは意図が大きな役割を果たすと考えている。

Peacocke:ある思考を考えることは、それが他の思考とその内容と一定の関係にあるものを意図して考えるということ。

O'Shaughnessy:思考の活動における意図の役割

Mele:たしかに思考の内容については自然に入ってくるものと考えざるを得ないが、それでも様々な形で心的行為があることを認めることができる。たとえば、なぜそのようなことが起こったのか答える際に、心的行為に訴えざるを得ないように思える。φすることを試みることと、φするようになることを試みること、の区別を用いれば、様々な心的行為を認めることができる、それは後者の意味で。眠ることは行為ではなく、眠るように試みることはできない。しかし、眠ることになるように試みることはできる。これと同じような仕方で心的行為を説明することができる。φであると考えていること自体は行為ではない、しかし、φであると考えるようにすることは様々な仕方でできる。あることを思い出すことは行為ではないが、あることを思い出せるように試みることはできる。

Dorsch:記憶や判断はMeleが言うような仕方で中間的な行為者として理解できる(mediated agency)。一方で、何らかの想定や想像(imagining)は違う。

PeacockeとMele Dorschの意見の不一致:前者は判断などがもっと直接的な意味で意図的なものだと考えている。一方で、Meleなどはそうではなく、判断に関する心的行為は間接的な意味で行為であると言えると考えている。この意見の不一致は、Pであると判断しようとする意図があるか否かを巡るものではない。そうではなく、意見の不一致はPeacockeの、出来事が行為になるのはどのような場合かを巡る考えによる。Peacockeによると、ある出来事が行為である場合は、試み(trying)が含まれている場合。そしてこの試みは出来事に先立つ意図とは区別されるべきもの。

心的行為を巡る議論においては、そもそも行為とは何かということも問題になってくる。

Gibbons:何かは、それが推論(reasoning)の過程の中のステップの1つであった場合、行為になり得る。ここで言うところの推論とは、その人が持つ理由に関する高階の規範的な思考を含むもの。

Pink:我々が持つ責任に関する直観と適合するような行為に関する説の構築を目指す。その結果、Gibbonsが論じたように、行為はそれに先立つ意図や決定に基づいてなされる、という考えは否定され、その行為の理由によって為される、という考えに行き着く。ある出来事が行為であるのは、その出来事がその出来事の目的によって動機づけられていた場合。

Owen:実践的判断を心的行為と見なすことができる。Owenは実践的判断が心的行為であった場合、これが信念であるとは見なせなくなると主張する。それは信念を我々がコントロールできないから。Owenによると、信念は、(1)真理に関する規範に従うものであり、(2)その信念に関する行為を動機付けるものであり、(3)知識に関する規範に従うものである、とされる。この3つ目の特徴が、信念と実践的判断を分けるものだとOwenは主張する。

Hieronymi:信念や意図の形成や修正の本性を説明するためには、新たな行為者のカテゴリーを想定する必要がある。それは、価値的コントロールと呼ぶことができるものであり、これは扱うという意味でのコントロールとは区別されるべきもの。価値的コントロールとは、何らかの問いに答えるという性質を持つもの。信念や意図は理論的、実践的な問いに答えるという側面を持つ。つまり、それらの問いへの答えを修正することで、行為者性が発揮されるという考え。

Pink、Gibbons、Hieronymiの比較:Pinkは全ての決定(decisions)が心的行為であると考えている。対して、Gibbonsはある一部の決定が心的行為であると考えている。Hieronymiは、意図に関して発揮される行為者性は、行為に対して形成される行為者性とは違うもの。

物理的行為と心的行為をどちらも行為として説明できる統一的な見解(unified account)が必要との前提がある。この前提について疑義を唱えることができるかもしれない。

O'Shaughnessy:通常の物理的行為においては、意志と実際の行為である出来事の間にはギャップがある。そのギャップが、試みることと、失敗することの違いを説明する。物理的行為においてこの区別が当てはまらない場合はない。思い出そうとすることや、あるイメージを思い浮かべようとすることなど、このことが当てはまる心的態度もある。しかし、単に意志だけが働き、何も生成されない、という場合もある。自分自身に語りかけることや、何かの物理的な動きを想像することなど。これらのケースでは、意志の働きはあるが、試みるという現象はない。この点について、O'ShaughnessyはPeacockeの、全ての行為は試みを含んでいる、という主張を拒絶していることになる。彼が主張する行為に関する一般的な規則は、意志の働き、ということになる。この結論は、心的行為は物理的行為と異なり統一的な見解によって説明できないことを示唆している。

Crowther:通常、受動的なものと考えられている聞くなどの知覚的な態度にも、行為者性を読み取れる、という主張。ここで見受けられる行為者性は、何らかの目的を得るためのものという意味での間接的なものではない。

心的行為を巡る議論から、心の哲学や認識論に対して何らかの議論を展開することも考えられる。

Peacocke:判断や信念、計算や推論といった心的行為と、その自覚、自己知の関係について論じている。

O'Brien:心的行為について考察する中で、心的内容の外在主義を批判。

Soteriou:心的行為の存在論的な問題についての考察。Geachによる心的行為は時間的外延を持たないとの主張に対する応答。

Proust:統合失調症の患者が考えている行為者性についての検討。主観がどのような時に行為者性を感じるか、という問題。我々が行為者性を感じるのは、一定の心的行為にアクセスできた時。Proustはこの論文の中で心的行為に関する1つの経験的仮説について考察している。その中で、メタ認知的感覚(ある心的行為を行うことができる、目的を達することができたか否かについて、何の行為も行わなかった、といった判断の基盤になるもの)が、心的行為に関する責任の感覚を作り出すために必要な構造であるという考えに行き着く。