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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Brian Huss. Three challenges (and three replies) to the ethics of belief. (2009)

信念の倫理に対する3つの反論に対して応答を試みるという趣旨。Hussが扱う反論は、①認知上の合理性は手段的合理性(instrumental rationality)ではない。だがそうなると自然主義的な世界観を想定している哲学者は認知上の合理性を受け入れることができない。②反主知主義からの反論、もし我々が信念をコントロールできないのであれば、信念に関する倫理を問うことはできない、③認知上の「べき」を含め、様々な「べき」があるが、それらを比べることはできない。もしそうであるならば、信念の倫理によって与えられる「べき」を用いた主張は重要なものではなくなる、もしくは、一種の利便性・指導性がなくなる。

①についてはThomas Kellyの議論を検討している。Kellyが用いる事例。友人は既にある映画を観たが、私は観ていない。友人が私に映画の内容を教えようとしている。私は個人的に映画に関する真である信念を持たないようにする理由があるということになる。ところが、友人があなたに映画の概要を話してしまったとする。この場合、あなたはこの友人の言うことを信じる認知上の理由を持つということになる。だがこれは手段的な理由ではない。

①への反論:認知上の合理性は、理論上の合理性と同じものだと考えることができる。その上で、真であることを信じることを目的とした一種の手段的合理性として理解することができる。

②への反論:*Hussは論じていないが、Ryanはought implies canを否定して、信念の倫理を擁護するという戦略をとっている。

(1)たとえ「意志の行為」(act of the will)によって信念を持つ(bring out)することができなくても、間接的に信念をコントロールすることができるので、信念の倫理は可能。

例:①電気がついている、と信じるために、電気をつける(Feldman 2001)。自分がよい人間だ、と信じるために、実際によい人間になれるよう、努力する。②なるべく良い証拠を集めることができるように行為する。宗教者と一緒に行動することで宗教的な信念を持つことができるかもしれない。宗教者と一緒に行為することは、おそらく、本人の自由。③ある信念を信じるための探究(inquiry)を行う。④自分に対してひたすら嘘をつく(ArendtによるEichmannのケース)自己欺瞞、⑤他者に対して嘘をつき、ある信念を形成するように促す、⑥ある意図を持つことで未来に関する様々な事柄を信じることができる、楽器を本気で演奏する意図を持った場合、私は私が何かの楽器を購入すること、練習をすること、などを信じることができる、⑦ある命題を受け入れて、他の信念を信じるようにする、Pを受け入れる、Pが真であった場合、Qも真である、Qについてはすでに真であると感じている、この場合、Pを信じ始めるかもしれない。⑧精神科医の診断を受けて、既に保持されている信念を忘れることにつとめる。

(2)自己欺瞞などが実際に効果的であることは、科学的知見により支持されている。さらに、他の実験では我々は直接的に信念をコントロールできることが示唆されている。Festinger & Carlsmithによるconsonance, disonanceを巡る実験。つまらない作業を実際に面白いと信じることができることを示しているように見える実験。

*このあたりのことで問題になりそうなのは、意図的な信念のコントロール。果たして、我々は証拠に逆らって信念を形成することができるのだろうか、という問い。反主意主義の主な理由は、信念は常に真理を目指しているものであり、それに逆らうことはできないというもの。我々の環境、我々の推論能力が、何を信じるか、決めている。だが、様々な実験はむしろそのようなこともあり得ることを示しているように思える。【以上】

Hussはcosonanceのケースは信念のコントロールを示しているように見えると指摘する。行為を正当化するために他の証拠に逆らわない信念を持つことは可能なように思われる。

嘘は悪いということをそれほど信じたことがない人は、それほど他者を傷つけない嘘をついて多少の利益得た行為を正当化するために、このような場合は嘘をついてもよい、といった信念を形成するように思える。一方で、もし嘘をついてはいけないという信念を持っていた場合、このような信念を形成することは難しいかもしれない。

この議論の含意:信念の倫理は間接的な信念の形成に関わるものだと思われていたが、実はこのような仕方で様々な直接的な信念のコントロールに関わるものでもある、ということになる。

disonanceのケース(つまらない仕事を楽しく思うようにするケース)も意図的な信念のコントロールのケースのように見える。

似たようなケースは、wishful thinkingに関するもの。

 ③について:Richard Feldmanは、異なる「ought」のどれが勝つか、決める方法はないと主張している。これは、我々に最終的に特定の規範を課すいわゆるjust plain oughtがないとの主張。

③への反論:欲求を唯一の価値の源泉とし、実践推論の道具主義をとれば、この問題は容易に解決できる。また、そもそも異なる種類の「べき」があると考えることも、一つの正当化がない想定なのかもしれない。CliffordやJamesらは、そのような区別はできないと考えていたようにも思える。もしくはそれらは異なる種類ではないものとして議論しているようにも見える。