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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Smantha Noll. History Lessons: What urban environmental ethics can learn from Nineteenth Century Cities. Journal of Agricultural Environmental Ethics

近年、Light, Wellman, Palmer, de Shalitといった論者によって、都市環境倫理の必要性が論じられ始めた。彼らは、都市における環境問題の重要性を訴え、それを「都市のブラインドスポット(urban blind spot)」という言葉でしばしば表現している。だが、このような動きの中で、重要な形而上学的な問題が抜け落ちているとNollは主張する。このことは19世紀の都市における諸問題から学ぶことができるとNollは主張する。

形而上学的なコミットメントは我々の社会生活の中に重大な影響を与える。これは我々がどのような都市環境を設計するか、そして我々がそれとどのような関係を持つか、ということに大きな影響を与える。

19世紀の都市環境の設計に影響を与えた形而上学的な考え:合理性や科学とそれらの進歩との関係、野生(wildness)という考えによって示される人間と動物の関係、tameやdomesticatedといった言葉で表される考え、文明化(civilization)という考えによる野生と飼いならし、単純と熟練、など。これらによって、以前はどのような動物も住居の周辺に入ってくることがある意味あたり前だったが、飼われている家畜やペット以外は野生の動物であり、拒まれるようになっていった。このことにより、伝統的に家の中で飼育されていた家畜たちも家からは追い出されるようになっていった。これらは特に公衆衛生という側面からそのような方向に向かっていった。

このような背景の中で使用されてきた、文明、順化、家、病気、進歩などの概念が、自然や都市といった環境倫理における概念に大きな影響を与えてきた。つまり、ある地点から自然や都市の概念の外延が変わったということ。19世紀以前において、都市において飼われていない動物も人間と同じ場所を占めていたが、都市の概念も変わり、19世紀以降はそのようなことがなくなった。

Nollの主張:このような歴史的背景を鑑みると、今後都市環境倫理を考えていくにあたり、我々は19世紀以後使用され始めた都市の概念ではなく、それ以前に使われていた都市の概念を使い、議論を進めるべき。

環境倫理を巡るこれまでの議論:1960年代から70年代にかけて、環境倫理と呼ばれる学問領域が発達した。それからの30年間、この分野では自然が持つ内在的価値に関する議論が中心的に論じられた。このような議論によって、実際に我々の社会生活は大きな影響を受けた。教育レベル、政策レベル。このような自然の内在的価値に関する議論が多い状況の中で、都市に関するブラインドスポットが出来てしまった。都市環境に関する倫理が論じられなかったもう一つの理由は、都市が人間を自然から遠ざけるものであり、それにより、内在的価値を持つ自然が破壊される、という想定があったから。また、都市の生活の方が地方の生活よりも劣っているとの想定。都市環境倫理の論者からの反論として、都市も我々が住む環境の一部として考え、それがどのような仕方で持続可能なものとなっていくのか検討するべきである、との主張がある。その根拠は、実は都市の生活は田舎の生活より一人当たりの消費するエネルギーが少ないという見解もあるから。

これらの議論で想定されていることは、都市と自然や都市と地方などの対概念が分離可能なものを指しているとの想定。一種のオーガニックな全体など、ではなく。

ただ、たとえばLightなどは、都市が自然を含むものとして考え、都市環境倫理の構築を目指している。

また、動物の倫理を巡る議論の中で、論者たちは野生とそうでないものの区別がそれほどはっきりしたものではないことに着目しつつ、議論を進めている。たとえば、都市における野生の生活も、実は思っているよりも多く見受けられる。菌類、鳥、ネズミ、リス、たんぽぽ、など。これらが示しているのは、都市は実は様々な野生の多様性が見受けられる場所である、ということ。

例:豚は都市生活の中でも重要なリサイクラーとしての役割を担っていた。人間が食べられないものを食べる、など。だが、現在は豚と人間は食糧をめぐって競合する関係になってしまった。