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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Galen Strawson. Mental ballistics or the involuntariness of spontaneity. Proceedings of the Aristotelian Society, vol. 103, (2003)

Strawsonの主張:推論や考え、判断などは、行為者性を持たない、との主張。心的行為の否定とも理解できる。

Strawsonの主な主張:意図(intention)は内容を持つ心的状態を作り出すことはできない。意図は心的内容そのものを作り出すことはできない。

Strawsonは心的行為と心的活動(mental activitiy)を区別する。その上で、思考は心的活動を含むが、行為は含まない、との議論を展開する。

難しい問いを考えることになった場合。その問題に自分の心を向けること、これは一種の行為であるとStrawsonは言う(p.231)。ここでおこっていることは、キーワードや文を想像すること、その問題に関する推論過程をもう一度追ってみること、その場面をもう一度思い描いてみること、など。注意なども行為。だが、注意そのものは考え・観念を生み出すことはない。内容のあるものが行為によって生み出されることはない、ということ。心的状態の内容は、受動的に与えられるもの。新しい心的内容を生み出す推論や判断は、このような理由で、行為ではないということになる(pp.232-233)。

aはFだろうか、それともGだろうか、という問いに答える際に、心的内容が作り出されているのではないか?私は答えはGであることを知っているが、なぜこの問いがGなのか、そのことを示す論証を思い出すことができない。だが、あなたは前提を知っていて、その前提から結論が導き出されることを知っていて、もしこの推論の過程を経ればaがGであることをはっきりさせることができることを知っている。これは、意図によってある心的内容が生成される(produce)例なのではないのか?(p.236)

たしかに、この考えが心に浮かび上がってくることは、行為によってなされている。ある論証とその前提を能動的に心の中に描くこと、これは行為。だが、この論証によって最後に導き出されるaはGであるという心的内容は意図によって生成されたものではない。

考えることと見ることの類似(p.237):Xを見ようとして、Xの方向を向くこと、これは行為。だが、Xを見ていること自体、知覚の内容は行為によって生成されたものではない。

民主主義に考えてみてください、と言われれば、民主主義について、自分の意志で、考えることができる。これは、ある心的内容を、意志によってつくりだすことではないのか?(p.237)

民主主義について考える場合、まず、民主主義という文字が心に浮かんでくる。そして、それに付随する様々な考えが浮かんでくる。しかし、それらの考えの内容は我々が意志によってつくりだしたものではない。

たしかに、推論、判断、考え、信念の形成などは、行為ではないかもしれない。だが、想像、選択、決定などは、やはり行為と言えるのではないか?想像とは、何か新しい心的内容を心にいれること。これはつまり、新たな心的内容を作り出すという意味で、やはり行為なのではないのか?(p.239)

何かを想像するにも、その想像される内容についてはすでに決まっている、と考えることができる。そして、その意味で、受動的なもの、ということになる。(p.240)

想像を維持したり、発展させたりすること、これはたしかに行為と数えられるかもしれない(p.241)。しかし、そこで扱われる想像の内容はやはりコントロールがきかないもの。

信念や推論、考えとは違い、想像は真理の探究のために行われるものではないように見えるが、そうとも言い切れない。ある状況ではどのようなことがおこるのか、ということに関する真理探究、と考えることもできる(p.242)。

選択や決定については、たしかにこれらは行為と言えるかもしれないが、それほど明確ではない。選択や決定も、実践的な必要性からとにかく起こる、という場合も大いにある(p.243)。ある問いに集中したり、その問いに注意を向けるといったことは、たしかに行為になるかもしれない。だが、決定される内容については、またしても、基本的に待つもの。決められるものではない。

心的なものの中で行為に数えることができるのは、心が向かう方向を決めること(aim and tilt)。それ以外は受動的なもの。Davidsonが物理的行為については、我々が行うのは身体を動かすことだけであり、それ以外は全て自然に依存している、といったことと類似的(p.245)。

Libetなどによる脳科学の知見:決定を行ったと感じる時よりも0.35秒ほど前に既にその行為に繋がる脳の動きが始まっている(p.245)。これは、決定なども実は受動的に起こっているものだということを表しているのかもしれない。さらにこのことは、何かを決定したと感じる時とは、その決定の内容がまず始めに意識され始めた後であることを示しているようにも見える。

StrawsonのLibetの解釈:Libetの実験結果が示しているのは、行為や決定が行われるのが、我々がその時だと思っている時ではない、ということ。このことは、そもそも行為や決定がないということを示しているわけではない。ある意識下のもと、決定が下されるのではなく、その人の性格や考え方など、様々な要因によって、決定は形作られている、と考えればよいだけ。そのような決定が責任の対象となることももちろん考えられる。

Strawson:人間の心は、深い、自然な、非行為者的な作用の原理によって、支配されている(p.248)。だが、人間の心的な側面の中に行為者的なものがまったくなかったとしても、我々は良い人生を生きることができる。行為的なものと責任の間に共関係もない(correlation)。最も知性的な人とは、そもそも選択をしない人とも考えられる(p.249)。

ランボー:私が考えるのではなく、私の中でこれが考えるのである。私は私の考えを見聞きする。