Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Christopher Peacocke. Mental Action and Self-Awareness (1). in Contemporary Debates in Philosophy of Mind. (2007)

Peacockeの戦略:物理的な行為に関する自覚(awareness)と同じような自覚を心的行為についても持つことができる。だから、心的行為も行為として気付かれている、ということになる、という議論。

麻酔をかけている時に何の知覚がなくても物理的な行為を行っていることを自覚することができる(p.359)。

この自覚の内容は、自分が何かをやっている、というもの。

この自覚は表象的なもの(representational)。この自覚は、我々に、世界の在り様にを伝える。

また、この行為の自覚は信念ではない(p.359)。不幸にも事故で足を失ってしまった人は、たとえ足がなくなったことを知っていたとしても、まだ、足がある、という自覚が残っていることがある。

さらに、行為の自覚は、試みの自覚とも区別されるべき。硬い蓋を開けようとしていたとして、そして開けることに成功していなかったとして、あなたは蓋を開けている自覚をもってはいない。持っているのは蓋を開けようとしている自覚だけ。

行為の自覚は一人称的なものであり、かつ、現在時制。つまり、私は今、かくかくしかじかのことをやっている、というもの(p.360)。

*恐らくStrawsonはこの点について意義を申し立てると思われる。このような自覚も、少なくとも心的なものについては、二人称的だと言うかもしれない。

行為の自覚は個別の行為の指示語的な考察が可能。このような指示によって指されるものは、その人の試みが因となったもので決まる。それとその人のその行為に関する知覚の関係によって決まるものではない。また、その人が持つその動きに関する信念によっても決まらない。指示が指すのはあるタイプの動き(p.360)。また、ここで考えられている自覚の与えられ方(mode of presentation)は、その自覚が起こっている時にしか与えられない。

Peacockeが考える心的行為の例:決定、判断、受け入れ、注意、計算、推論、試み(p.361)。

想像というタイプの心的出来事は心的行為とは呼べない。想像は、行為の場合もあるし、そうでない場合もある。ある曲を心で聞こうと思って想像した場合、行為。だが、勝手に何かを想像してしまうこともある。

ある心的出来事が行為であるには、それが試み(trying)を構成的に(constitutively)含んでいなければならない(p.361)。そして、それはその試みの成功を含んでいなければならない(p.361)。友だちが自分に嘘をついていると信じようとしても、信じられないかもしれない。この場合、そのような心的状態を持とうとしたことに失敗したということになる。

Peacockeはこのような心的行為の提案は、基本的には物理的な行為の説明とも同じであると言う(p.362)。

Peacockeが提案する考えの哲学的含意(p.362):

信念に関して:信念は度合いがあるものではなく、信じるか、そうでないか、ということになる。というのも、もし信念が心的行為であり、心的行為が試みを含んでいる場合、試みるかそうでないかは、白黒がつけられることであるから。同じようなことが、決定についても言えるということになる。

全ての信念が行為を含んでいるわけではない。しかし、明らかに行為を含んでいる場合があり、かつ、その場合に、信念は評価することができる(p.363)。

概念に関して:概念の適応には規範があるという考えを含意している。判断が行為ということになると、その判断は何らかの規範に従っているということになる。その規範が、概念適用の規範。

アクラシアに関して:信念や判断が行為ということになると、このことから信念に関するアクラシアを説明することができる。即ち、どのような証拠や理由が提示されたとしても、それを信じることができないかもしれない。証拠が行為を含意するということはない。行為者が持つ他の様々な要因、欲求、願望、自己欺瞞などによる、アクラシア的な信念や判断の存在の肯定。

選択と判断を類似的に考えるということ:両者の違いはその内容だけで、基本的には同じ心的行為の原理という観点から説明できる。Kahnemanによる経験的探究も参照。

Peacockeのthe Principle Hypothesis:考人(thinker)の、心的行為である彼の心的出来事の自覚は、行為の自覚の一種である。

心的行為の自覚の特徴:

①感覚的な経験ではない。

②何かが起こっているという経験ではなく、自分自身が何かをやっているという経験、つまり、行為性の経験。

③心的行為の自覚は表象的なもの。

④心的行為の自覚は一人称的であり、かつ、現在的。

⑤指示語的な理解が可能。この考え、この判断、この信念、この計算、といった指示が可能。

⑥心的行為の誤った自覚も可能。複雑な欲求、自己欺瞞などがあった場合、何かについて判断していると思っていても、全く違ったものについて判断している場合もあり得る。

⑦あるタイプの心的行為を行うことができる。たとえば、ロンドンは燃えているという判断の行為のタイプは、考人がこのタイプの判断を下すことができる能力とのつながりによって、個別化できる。通常のケースであれば、このような判断を下そうと試みた場合、このような判断をすることができる。これらの心的行為を行うために、他の何かをするということはない。これは基礎行為とも関係がある話。つまり、他の何かによって説明できない、基礎行為があるのと同様に、心的行為についても、基礎的なものがある、ということになる。

PeacockeによるPrincipal Hypothesisの擁護(p.365):

現象学的にこれらの心的出来事は与えられるものというよりも、何かをしている、というもの。

*ストローソンはこのことについて真っ向から反論するのかもしれない。

「明日の会食」が心の中に起こる3つのケース:①記憶や受動的な想像によって、受け身的にこの言葉が心の中に起こってきた、②会食は明日だと、これまでの記憶を証拠として、判断をしている、③明日は会食にしようと、積極的な決定を下している。

これら3つは明らかに現象学的に違う。受け身的な心的側面しか受け入れることができない場合、これら3つの違うを説明することはできないし、後者2つの心的出来事の記述は不完全なものになってしまう(pp.365-366)。

そもそも、心的行為には、知覚的なイメージは必要ない。理論的な問題を解こうとしている場合、特にそのようなものは必要ない。だが、このような試みそれ自体はその人の現象的状態(phenomenal state)に貢献する。

統合失調症の記述と説明(p.368)

統合失調症の患者は心的行為の自覚がない。つまり、他者によって為された考えと自分によって下された判断の見分けがつかない。このような自覚がないという報告も実際になされている。

*他の様々な統合失調症の症状は、心的行為の自覚という観点から説明できる。

心的行為の自覚における一人称的性格:私がφしている、という判断は、mがφしている、mは私である、という2つの信念のペアに依存しているわけではない。むしろ、私はφしているという判断は、2つの信念のペアとは区別できるもの。行為の自覚は、その意図的な内容のうちに、すでに一人称的な側面を含んでいる。この点は、「ある人が私のことを裏切った」という結論にいたる推論についても当てはまる。「私は、ある人が私を裏切った、と考えている」という結論は、mは、ある人がmを裏切った、と考えている、mは私である、という2つの信念からは出てこない。行為者としての主観、私、がなければ出てこない。

心的行為の自覚は合理的行為者性を含んでいる。正しい心的行為の自覚は、合理的行為者性を含んでいるから。だが、Peacockeは両者が還元的な関係にはないと考えている様子。行為の自覚は、行為者の意図によって、説明し尽されない部分がある。ある行為をしようとしている時に、必然的に、その人がその試みについて自覚しているかどうかはわからない。うまくコピーをしようとしている時に、自覚できていることは、手を動かしていること、ある作業をしていること、といったことだけ。

このように考えてくると両者の関係は還元的な関係ではないように思えてくるが、では、どのような関係であるのか、これは難しい問い。