読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Andrew Brennan & Yeuk-Sze Lo, Environmental Ethics, in Stanford Encyclopedia of Philosophy

*特に都市倫理に関連する記述についてまとめる.

哲学の一分野として環境倫理が起こってきたのは1970年代のこと.西洋に伝統的にあるとされる人間中心主義(anthropocentrism)への反論として起こってきた.

自然の価値を巡る2つの潮流:

①人間中心主義を否定し,自然そのものに価値を認める戦略.

②全ての倫理的規範は人間の間からしか出てこない.自然への義務なるものがあったとして,それは人間間の義務から二次的に引き出されるもの,このような態度をとった方が,実践的に,優れた政策を提案するのに有益→啓蒙的人間中心主義(enlightened),打算的人間中心主義(prudential)

1960年代には既に人口増加による環境問題が指摘され始めていた.それを受けて,哲学内部において,一分野として,環境倫理学が確立されていった.

*『沈黙の春』は1962年の出版.『成長の限界』は1972年の出版.後者は個人,国,世界レベルで,価値についての基本的な考え方の変化を求めた.

環境問題に関する運動が起こった国々:アメリカ,オーストラリア,ノルウェイ

Leopoldによるland ethics(土地倫理).自然そのものに価値があるという考え.ただ彼は倫理学者でなかったため,その主張に哲学的なサポートを持たなかった.

これらを受けて,哲学者の仕事は,自然そのものに価値があるという言説を,哲学的にどのように正当化できるのか,という問題になっていった.

70年代にStoneは法学の立場から,木などの自然界の中にある対象も,法的に配慮を受けることができる立場(legal standing)を有しているとの議論を展開した.

80年代に入ると世界各地で環境への配慮を政策に反映させようとする緑の党の活動が活発になる.

ネオ・マルクス主義フランクフルト学派,ホルクハイマーやアドルノらによる環境倫理に関する議論:合理性と進歩についての考えによって人間が自然から引き離され(disenchantment),もともと備えていた創造性などが抑圧されることとなった.この過程で,人間の自然に対する態度は,自然法則によって決定論的に支配されている世界である,というものになっていった.この問題を解消するには,人間性を備えた合理性についての考えを用いる必要がある.そうすることによって,我々の自然に対する態度にも変化が現れる.たとえば,自然を(マルクスがもともと想定していたような)単なる消費のための財を提供するものとしてではなく,美的経験によって認識することもできる.

人間によって手が加えられた環境を巡る議論は,野生を巡る議論に比べて,それほど活発に行われてこなかった.ただ,どのような環境を人工的に作るのかという問いは重要なもの.このあたりを議論をしているのは,King 2000 Environmental Ethics and the Built Environment, Light 2001, Palmer 2003, Fox 2007 A Theory of General Ethics: Human Relationships, Nature and the Built Environment, など.

*Foxは倫理は都市に関する問題も扱わねばならないと主張する.それは,そこまで問い,かつ,それに対して回答を与えることができなければ,真に正当な倫理説とならないから.その上で,彼が主張する規範倫理理論は都市を巡る問いも扱うことができると主張し,そのことにより,理論の優越性を主張している.

例:戦争が終わった後に安い費用で建物をつくった結果,イギリスでは犯罪率が増えたり,不便になったりした.

ブラントラントレポートに端を発した持続可能な開発,その中で語られた環境権などの新たな人権