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Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Steiner, H. Directed Duties and Inalienable Rights (2013)

*Inalienable rights(不可譲の権利)と選択説を巡る問題

選択説の問題点として、しばしば不可譲の権利の問題が挙げられる。もし譲ることができない権利があるとすると、そもそもその権利を放棄するということができないということになる。そのような権利を、権利者の選択という観点からは、理解できないように思える。

Steinerの主張:①権利は不可譲である。②たとえ権利が不可譲でなかったとしても、そのような権利は道徳的に正当化ができないものになる。

→不可譲の権利についての問題はSteinerが擁護を目指す権利の選択説が伝統的に抱えている問題とされているから、この問いについて議論をすることは選択説の擁護者にとっては必要なこと。ただ、Steinerは不可譲の権利の有無と選択説・利益説の論争は独立しているものだという(231)。

Steinerが訴える権利についての否定し難い事実(*もしくは我々が同意できそうな権利に関する考え)

(1)権利によって含意されている義務はある特定の人からある特定の人の間にある一方向性(directed)を持つもの(232)。

(2)道徳的権利は正義の原理によって基礎づけられている(232)。権利の侵害は不正義であると考えている。他の道徳的義務を怠ったからといって、不正義であるとは考えられないケースがある。臆病であることは道徳的義務を果たさないことになるかもしれないが、それは不正義とは呼べないだろう。

(3)正義の原理、もしくはそれに基礎づけられている道徳的権利は、法的システムの道徳的な評価の基準になる(232)。ある法が道徳的に問題があるという場合の典型的な例は、それが不正義である、もしくはそれにより権利が侵害されている、という場合。ある法体系が寛容を要請することは考えにくいが、道徳的権利は保障するであろうことは予想できる。

(4)上のように道徳的権利と深い関係のある規則の集合である法体系においては、他の規則よりもそのような規則の方が優先される(233)。自分の所属する団体で要求されていることを行うために法で守られている他者の権利を侵害することは通常許されない。

(5)道徳優位テーゼ:正義の原理、もしくは、それによって基礎づけられている道徳的権利は、他の道徳的原理の要請よりも優先される(233)。

(5)について:新聞社の例、道徳的な議論において、答えがはっきりと出ない場合、最終的に権利に訴えて議論を終結させるということが考えられる(例:私は編集長なので、どちらの選択をするか、決める権利がある(私はどちらにするか決める自由を有しており、かつ、他者は私の決定に介入できないという請求権を持っている))。権利を最初に持ち出しても議論にならない。だが、権利が誰にあるのか、そして、それによって何が決まるのか、前提として共有されているということ(234)

Steinerはこの道徳優位テーゼに訴えて、権利を巡る議論においていくつかの奇妙な考えが提出されていることを示していこうとする。その中で、不可譲の権利という考えも擁護が難しいものであることを示そうとする。

McConnellによる権利の侵害(violation)と不履行(infringement)の関係について:ある権利がinfringeされていて、かつ、それが道徳的に正当化できないものであった場合、権利の侵害と見なすことができる。一方で、権利の不履行が道徳的に正当化できるものである場合、権利の侵害と見なすことはできない。

例になりそうな事例:私は私のありあまる財産を他者によって使用されない権利を有しているが、この権利が不履行になり、財産がお金が必要な他者のために使うように強制されることは道徳的に正当化できるようにも思える。これが、権利の不履行があっても権利の侵害がない場合。

→このような事例が想定しているのは、慈善の原理などが正義の原理よりも優先されることがある、ということ。これは、道徳優位テーゼと明らかに不一致(inconsistent)。道徳優位テーゼからすると、正義の原理である権利が不履行であるが道徳的に正当化できるというケースはなく、不履行はかつ侵害ということになる(235)。

リアクション:特に緊急の事態などでは、道徳的権利に他の道徳的配慮が勝ることがある→阻却可能な(defeasible)権利の想定は、道徳的権利が他の配慮に優先されてしまうことを許してしまう、つまり、道徳優位テーゼを手放すことになる(235)。

Feinbergの雪山遭難の事例(235-236):この事例では、他者が持つ権利よりも、その権利を不履行にすることによって得る利益(生命の維持)が優先されるべきことが、示されているように見える。

だが、Steinerはこの事例も、道徳的権利が他の考慮にくつがえされていることを示しているのかどうか、明確でないと主張する。それは、このことが、遭難者の行為を道徳的許容する道徳的義務によって、所有権が全く邪魔されていないことを想定せざるを得ないから。そして、それは最終的には、配分的正義の原理に頼らざるを得ない[だから、道徳優位のテーゼは揺るがない、最終的に、正義の原理に訴えざるをえない]。

一方で、もし所有権が他の道徳的配慮によって妨害されているのであれば、遭難者は権利の不履行を行っていないことになる。そうではなく、遭難者はやはり所有者の権利を不履行にしているのであれば、なぜこの不履行は権利の侵害にはならないのだろうか。この不履行を正当化する道徳的理由があるということは、その正当化が十分であることを示すことはできない(236)。

→このように議論して、Steinerは雪山遭難の事例は道徳優位テーゼへの十分な反論にならないと結論づける(237)。

 権利を譲渡する(alienate)とは、その権利に含意されている他者が行うべき義務を放棄するということ。権利を譲渡した場合、その権利に含意されていた義務が行われないことが許容されるということ。

暴力を受けない権利:ある人が他者から暴力を受けることを同意(consent)したとしても、そのような同意によってその人が他者から暴力を受けない権利を放棄するのに十分ではないように思える。この不十分さは、権利を放棄できない無権限(disability)ということになる。このことから、このような権利は不可譲の権利のように思える(237)。

Steinerの応答(237):無権限は対応する免除(immunities)を含意している[Steinerはこれは定義上の必然的な真理であると考えている様子(239)]。ある人が他者に何かの責任を負わすことができないという意味で無権限だとすると、その他者はある人から責任を負わされることを免除されているということになる。上の事例に即して考えると、BlueがRedに対して同意したとしても暴力を受けない権利を放棄できない場合、Blueは権利を譲渡することについて無権限だということになる。それは、Greenという第三者が、BlueがRedに対して権利を放棄することを免除されている。

[??]なぜここで第三者が出てくるのか、よくわからない。ここで免除されているのはRedなのでは?つまり、Redは他者に対する義務を消されることを免除されているということなのでは?おそらくここは論点になるのではないか。

→Steinerは、不可譲の権利があるとすると、無権限があり、それに対応する免除がでてきて、3者による2つの関係が出てくると考えている(Blue-Red, Blue-Green)(244)。

では、このGreenの免除は放棄できるものなのか?そして、それが放棄されるのは、誰によってなのか?もしGreenがこの免除を放棄することができるのであれば、Blueの無権限は消え、暴力を受けない権利も不可譲の権利ではないということになる。

もしGreenもこの免除を放棄できないとなると、Greenはこの免除について無権限ということになる。すると、この無権限に対応する免除が発生しているはずであり、この免除を受けるさらなる存在、Blackなどがあらわれるということになる。もしBlackの免除も放棄できないということになると、無限に続く可能性すらある。どこかでとまるのであれば、権利は不可譲ではないということになる(238)。

ここから、Steinerは不可譲の権利を主張するものは、次のようなジレンマを抱えることになるという。つまり、ホーフェルド的な権利の論理を放棄するか、無限後退を受け入れなければならないということになる。

ホーフェルド的な権利の論理:あまりにも一般的に受け入れられているものであり、非常に有益な権利概念の分析ツール。これを捨て去ることは難しい(239)。

無間後退:無限後退を認めるということになると、RedがBlueに対して暴力を加えないという請求を受けているのか、わからなくなるということになってしまう(239)。

さらに、無権限の数と免除の数は同数であるように思えるが、もしBlueの権利が不可譲の権利であった場合、Blueは無権限は持つが免除は持たないということになってしまう。[??]

不可譲の権利に対する典型的な反論:道徳的な反論と概念的な反論(240)

道徳的な反論→権利保持者の自由を制限してしまう。

概念的な反論→不可譲の権利の保持者は道徳的な行為者として概念的に矛盾している

Steinerの反応:道徳的な反論の成否は分配的正義の原理に依るということになってしまう。概念的な反論は、論点先取的に、権利の選択説・意志説を想定している。

不可譲の権利の擁護のための他の議論:このように想定することで社会的な目的を最も効率的に達成することができる(240)。→この戦略は道徳優位テーゼと衝突してしまう。その結果、そもそも絶対的なものと思われるはずの権利が単に道具的な価値しか持たないものということになってしまう(241)。

さらなる他の議論:不可譲の権利を想定することで、その権利が認めている財への権利を守ることができる。

ハーディンの事例(241)→詳細を欠いている。そしてその詳細を埋めてみると、結局この戦略も道徳優位テーゼと衝突することになる。

カント的な議論(243):道徳的尊厳性に訴える議論。それぞれの行為者は、その行為者自身も放棄することができない、権利を有している。

→この種の議論はホーフェルド的な権利の論理の観点から退けることができる。もし無権限があるならば、免除があるということになる。そして、この関係は2人の人の間にある関係であるから、本人に課されているものではないということになる(correlativity)。