Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Chris Heathwood (2015) Irreducibly Normative Properties

自然主義者は、規範的性質が自然的性質に、還元できない、もしくは、それによって説明できない、という主張をする。ここから、彼らは規範的性質が何でないのか主張することはできても何であるのか説明することに困難を抱えている。

*たとえばダンシーなどは自然的性質によって規範的性質の例化を説明することは認めるのではないか?

Heathwoodの提案:自然的性質によって規範的性質を特徴づける試み。何かに規範的性質を帰属させることは、必然的にその何かを賞賛(commend) もしくは非難(condemn)すること。

*つまり、規範的性質とは何か、という問いではなく、あるものに規範的性質を帰属させるとはどういうことなのか、という問い。

Heathwoodは彼の主張は非自然主義者が抱える問題の解消につながるが、非自然主義者に反対する論者も援用することができると述べている(217)。

あるものに規範的性質を帰属する場合、その性質によって記述するのと同時に、その本性によって、そのものにまつわる背景的なものではなく、そのものを賞賛もしている(220)。

*ここで言われている記述とは何を指しているのか。これは悪い、といった場合、「悪い」という言葉で記述しているのか?

賞賛や非難は非常に一般的な言語行為。これによって特徴づけるということで、規範的性質はミステリアスなものにならない。

規範的性質は、我々に賞賛や非難を行わせる力(power)を持っている(221)。あるものに規範的性質を帰属させることは、構成的に、そのものを賞賛したり非難すること(constitutive)。

動機についての内在主義との対比:たとえ関係する動機をもっていなかったとしても賞賛や非難をすることはできるので、動機の内在主義とは区別できる。ここで言うところの賞賛や非難は、謝罪と類似的に理解できる。心のこもっていない謝罪もあるが、それは謝罪ではある。同じように、動機が伴わない賞賛や非難は、まだ賞賛や非難ではある(sarcasmでなければ)

*賞賛や非難について、端的に、もう少し詳しく知りたい気がする。そして、これは経験的仮説としても考えることができるのだろうか?即ち、もし多くの規範語の使用に際して賞賛や非難がなされていなかった場合、この説は経験的に誤ったものになる、というようなことが考えられるのだろうか?

非認知主義との比較:ここで主張されているのは、規範語を使った発話の本性に関する説。規範的判断の性質に関する主張は何もしてないが、規範語を使った発話がどのようなものかということについては積極的な提案をしているということになる。

規範的性質についての報告の事例が反例になる→これに対しては、知識についての条件を追加することで対応する(228)

3つの反論:

①悪魔仮説、悪魔が規範的性質を帰属している場合、何をしていることになるのか?

②規範的性質を賞賛や非難によって分析することは、単なる同語反復・トートロジーではないか?→賞賛することと規範的性質を帰属させることは同義ではない。賞賛しても規範的性質を帰属はしていない。バイクが炭素で出来ていることに言及して賞賛することはできるが、それによって規範的性質を帰属しているわけではない。

*だが、価値的性質を帰属しているのでは?結局、規範的性質を価値的性質によって分析しているということになるのでは?ハイファイブの事例がよくわからない。

③非・規範的性質の中にもessentially commendatoryなものがあるのではないか?

この説ができる3つのこと:規範的性質の奇妙さをうまく説明できる、なぜ還元主義が誤った説なのか説明できる、行為指導性についてうまく説明できる