Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Bernard Williams 'Practical Necessity' 'Moral Incapacity'

行為者が彼・彼女が行うべき行為について熟慮した結果,ある行為を行わなければならない(must)と結論する場合がある.これが,実践的必然(practical necessity).

ある行為を行わなけれならない,と決めることは,「φするべきである(ought)」と決めることとは違うものであるとWilliamsは言う.この違いについて,Williamsは次のように説明する.

「べき(ought)」が「しなければならない(must)」と関係しているのは,「最良(best)」が「それだけ(only)」と関係しているようなもの

つまり,「φするべき」と言うのは,全ての可能な行為の中でφすることが最も好まれる,ということであり,φしなければならない,と言うのは,φのみが可能な行為である,ということ.また,oughtとmustの違いは,どのような場合にこの主張が偽になるか,という観点からも区別することができる.φすることはできない,と言っていたとして,φしたとしたら,最初の主張は間違っていたことになる.一方で,φするべきではない,と言ったとして,φしたとしても,最初の主張は間違っていたことにはならない.これらの点から,Williamsはmustであらわされる実践的必然は概念的に能力(capacity)と関わるものだとする.

「こんなことはできない,と実践推論の中で結論したとすると,私が気が付いたことは私の何らかの無能(incapacity)の発見」「自分自身の発見」「自身の性格の表現」(130)

実践的必然が典型的にその人の責任と関係している.実践的必然を認識して行為した場合,その行為の責任をその人に帰属することができる.

実践的無能(practical incapacity)について:物理的な必然性とは異なる,自身の道徳的なoutlookの表現としての実践的無能(ルターの例にも言及しつつ)

道徳的無能はその人の性格(character)によって基礎づけられている(60).また,この道徳的無能を,行為者は整合的にとりさろうとすることはできない.ある人が殺人をすることができないとして,しかしこの人が自らの恐れなどを克服して殺人を犯そうとしている場合,この人にとって殺人は道徳的に無理ではない,ということになる.つまり,道徳的不能は,そもそもそのように行為しようとすらできないこと,ということになる(63).

また,この道徳的不能は何らかの熟慮的な過程を経ているものだとWilliamsは考えている(65).