Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

David Copp, Rationality and Moral Authority (2015) in Oxford Studies in Metaethics, vol. 10

合理性の教理(the Rationality Doctrine RD):道徳が規範的であるかどうかは、道徳と合理性の間に何らかの関係がある場合のみ

Copp:RDの一つの形態である「基本的な関係性のテーゼ:the Basic Linkage Thesis(BLT)」を退ける。このことにより、RDにも疑義を向ける。

RDの魅力:もし道徳の規範性と合理性に何の関係もないのであれば、合理的な人間に対して道徳は権威も持たないということになってしまうが、それでは、道徳そのものがどのような重要な意味でも規範性を持たないものになってしまう。道徳を無視しても合理的であれるか否かということ。

もしRDが否定されてしまうと、そもそも道徳が何の規範性を持たなくなってしまう。Gauthier (1986, pp. 1-2), Smith (1994, p. 65), Mackie (1977, pp. 29-30)など。

Coppの自然主義的な説は、このような考えに訴えることで、批判されてきた。もし自然主義が正しい説であったとすると、合理性の要求として道徳的であることが求められないということになってしまい、道徳の規範性が失われてしまう(135)。

CoppはRDを形而上学的な基礎づけの関係として理解している。即ち、道徳が規範的であるのは、道徳が持つ規範的な権威が道徳と合理性の関係によって基礎づけられている場合のみ、というい考えとしてRDを理解している(136)。

RDに反対する立場:

Primitivism:道徳の規範性はそれ以外のものに説明されるものではない。

Reductionism:道徳の規範性は非自然的な事実に訴えることなく説明することができる。

Non-rationalistic reductivism:(場合によっては合理性の規範性をも説明する)根源的な規範性によって、道徳の規範性は説明される。

Coppが注目する重要な前提:道徳的でないことが重要な失敗(significant failure)であるのは、それが実践合理性から見た時に失敗だった場合のみ(139)

Coppの問題意識:そもそもこのような論争が行われている時に、哲学者が規範性や合理性という名前で呼ばれる同じ概念について語っているのか、疑問(139)。

RDはトリビアルな真理?→規範的な要求は実践合理性の要求の1つであるならば、RDはトリビアルに真であるということになる。これは概念的な真理であると考える人もいる。

このようなトリビアルな真理ではない、実質的な主張としてのRDの理解の模索。

規範性を理由によって理解する?

規範性を「べき」によって理解する?

規範性を欲求や動機に還元する?

規範性を理由や「べき」によって理解しようとしても、規範的でない理由や「べき」の事例があるように思えてくる(Foot style etiquette cases)。そうなると、規範的である理由は、合理性と関係があるもの、と言わざるを得なくなるかもしれない。

規範性の分析は難しい。そもそも、規範性は分析不可能なものという考えもある。とりあえず、縛り(bindingness)や、規範的であることに失敗することは、それ自体で問題のあること(independently worrisome)という考えを想定して、議論を進めていく(142)。

合理性について:

能力としての合理性(the competence sense):行為者が合理的であるのは、行為者が自ら熟慮し、異なる理由を比べ、そして理由によって行為できる能力がある場合。

性能としての合理性(the performance sense):能力としての合理性を備えた行為者の活動が関係する基準に合致している場合。

能力としての合理性を持っている場合でも、その意味での合理性が要求するように行為できないという意味で、パフォーマンスの基準にあわない活動しかできないという場合もある。

このような合理性についての考えによってRDを理解する?→これら二つの合理性を満たしていても、合理的でない場合も考えられる。失礼なチェスプレイヤーの事例。失礼な態度をとっているチェスプレイヤーであっても、2つの意味で十全に合理的であるとも考えられる(143)。?? 

性能としての合理性を、合理的なperformanceという観点から理解することで、RDが実質的な主張として理解することができる。

 ただ、そのように言っても、どのような行為が合理的であるか、相当意見が分かれる。エゴイストは、最も合理的な行為は、自らの欲求が一番満たされるように行為することだと言うかもしれないし、このような合理性の考えに反対する人もいる(カント主義者は定言命法に従うことが最も合理的であると言うだろう)。エゴイストはカント主義者に同意して、道徳的である要求が課せられているとは考えるかもしれないが、それは道徳の要求であり、合理性の要求ではないと主張するだろう。

Shafer-Landau(2003, p. 168)やParfit (2011 I, 56)の主張を参考にして合理性を思慮深い(sensible)、理性的(reasonable)という考えによって理解することに一応する。

BLTについて(146):

BLTの内実:必然的に、行為者がcという状況下で道徳的にφする必要があるのは、行為者がφする合理性の要求がある時、もしくは、cにおいてφするように動機づけられている場合のみである。

BLTによって、次のようにwhy be moralの問いが答えられる→われわれが道徳的であるべきなのは、それが実践合理性の要請であるから。

上のBLTは、道徳的でないということは、非合理的である、ということは含意していない。道徳について知らない場合は、合理性の観点からの失敗はない。また、このBLTによると、道徳以外の他の事柄に考慮した結果、道徳的でないことが非合理的であるということにはならない場合も考えられるというのがBLTの内実。

行為の理由についても、合理的な行為者がそれを考慮にいれるということで、取り込める(147)。

CoppによるBLTへの反論(148~)

BLTを擁護する動機:①RDが真であると考えている人たちは、BLTによってそれを支持しようという動機がある。②道徳の動機と合理性の関係を重視する場合、BLTは魅力的(Smith 2010, pp 134-138)。

Coppによる2つの反論

①道徳によって要求されていることと、合理性の要求は、直観的に、全く別物のように思える。道徳の要求は、問題となっている行為がどのような意義を持つのかに依っているはずであり、それがどのように合理的であるのかということには関係がないように思える。

→Smithの応答。道徳についての探究を行うことは、合理性についての探究でもある。虐待が禁じられるべきだという結論にいたる道徳の探究は、合理性の探究でもある(2010)。

②道徳的であろうとしなくてもそれが非合理的でない事例が多くある。アリスの事例。他者の意見を誤って表現してしまったことで、そのことについて誤らないければならないという道徳的な要求が課されている。しかし、もし誤ってしまうと、彼女自身は大変につらい恥をかくことになるし、自尊心を深く傷つけられることになる。また、彼女の職場での立場も非常に悪いものになる。そのため、彼女は誤ろうという動機を持っていない。しかしこのことは、彼女が非合理的であることを示しているとはどうしても思えない。

そもそもなぜRDが重要視されるのか。それは、RDによって道徳の規範性を説明することができそうだから。だが、Coppは道徳の規範性に懐疑的でない理論の間にも論争があり、そのような状況においてはRDが果たす役割はそれほど大きくはない(RDに訴えなくても道徳の規範性を説明できる可能性があるから)と主張する(153)。