Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Harry Frankfurt (1969), Alternate possibilities and moral responsibility

(いうまでもなく、この論文は別行為可能説への古典的反論。だいぶ前に勉強したのだが、授業の関係であらためて読むことになり、内容の確認のために再び勉強)

(道徳的責任についての)別行為可能説:ある行為がそれを為した人の責任であるのは,その人がその行為以外の他の行為を行うことができた場合.

別行為可能説の魅力:強制や病気などによる行為について,その責任を問わないですむ.何かを強制的に行わされた場合,われわれはその行為の責任を通常問われない.これは,他に選択肢がなかったという理由に起因しているように見える.

ただ,強制的にある行為を強いられた,その行為の他に選択肢がなかった,といっても,その行為がどのようになされたかは,状況によってかなり異なってくる.

1.強制が無視された場合→強制はないに等しいから,自分で行為したということになる.だから,道徳的責任は問われる.

2.強制力によって過去の選択を忘れてしまうぐらい,恐怖におののいている場合.過去の選択が行為において何の役割も果たしていない場合.→この場合は道徳的責任を免れることができるとフランクファートは言う.

3.強制はあるが,その強制の前に決めていた行為を行った場合→この場合は,強制ではなく,自らの選択が行為の重要な役割を果たしているから,道徳的責任を問うことができる.

→強制的に行為を強いられることは,それ以外の他の行為の可能性がないことと同じことではないということ.つまり,それ以外の行為の可能性がなかったとしても,その行為について完全な責任を負うこともありえるということ.

4.ある他人によって脳の状態をコントロールされて,その他人が望むように行為することを人為的に決められている場合.ところが,この他者が何も介在することなく,コントロールされている人が自らの意思で行為を決めた場合→この場合でも,他の行為の可能性はなかったわけだが,行為の責任は問われるように思える.

むしろ重要なことは,もしその人物がその行為を行うことができたならば,その行為を行うか否か,ということであるように思える.

さらに,重要なことは,その行為がなぜ行われたのか,ということ.その行為がその行為者の意思によるものであれば,責任を問うことができるし,そうでないならば,責任を問うことはできないということ.

別行為可能性説は次のような行為の理由と結びついた説に改定されるべき?:ある行為は,それ以外の他の行為を行うことができなったという理由で行われた場合,その行為の責任を問うことはできない.

→フランクファートはこの改定版の説も否定する.このような理由で責任の免除が行われる際,われわれはこの原理の字義的な意味以上のものを想定する.たとえば,この行為は私が本当に行いたかったことではなかった,など.

フランクファート自身の提案:ある行為は,もしその行為が他の行為を行うことができなかったという理由のみによってなされた場合,その行為の責任を免じることができる.

フランクファートはこの原理は決定論とも両立するという.たとえある行為以外に可能な行為がなかったとしても,もし行為者はその行為を本当に望んで行ったのであれば,われわれはその行為者の責任を問うことができるように思える.つまり,決定論と道徳的責任は両立するということ.