Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Judith Jarvis Thomson, The Trolley Problem (1985)

フットのトロッコ事例(1978):あなたはトロッコの運転手だったとしよう.このままいったら5人のたまたま居合わせた作業員をひき殺してしまう.トロッコのブレーキは壊れている.もう一方の線路にはこちらにもたまたまいた作業員が1人いる.もしそちらの方に行けば,5人の命を助けることはできるが,その1人は殺すことになる.

問い:この場合,1人の作業員がいる方にハンドルをきることは,道徳的に許容されるだろうか(morally permissible)?

トムソンが会った人は皆,このケースではハンドルを切ることは道徳的に許容されると答えた.人によっては,道徳的に許容されるのではなくむしろハンドルを切らねばならない(must)と言う人もいる.

外科医の事例(これもフットが使った事例):外科医であるあなたは5人の患者を診ている.今日,この患者はそれぞれの患部の移植手術を行わなければ,皆死んでしまう.そこに,健康診断で病院に来た若者に関するニュースが飛び込んでくる.この若者は,5人の患者の血液型にも合致しており,この若者を使って臓器移植をすれば,5人の患者は助かる.あなたはこの若者に手術をしてもいいかと聞いてみたが,若者は,「同情はしますが,それはできません」と答えた.

問い:この場合,1人の健康な若者を殺して5人の患者を助けることは道徳的に許されるのだろうか.

トムソンが会った人は皆,このケースは道徳的に許容されないと答えた.

フットの答え:

外科医の事例:「1人を殺すことは,5人を死ぬにまかせることよりも,悪い」,だから,この事例では1人の健康な人を殺すことは許されない.

ロッコ事例:「5人を殺すことは,1人を殺すことよりも悪い」,だから,この事例では1人を殺して5人を助けることは許容される.

トムソンはこの説明には一定の魅力があるが,ことはそれほど簡単ではないと言う.トムソンは以下のような傍観者の事例を提示する.

傍観者の事例:あなたは線路の横を歩いている.あなたはスイッチを作動させてトロッコの行く先を決めることができる.ドライバーは何もできない.

ロッコ事例と傍観者の事例の違い:①トロッコの運転手はトロッコに関して責任がある.一方で,傍観者はたまたま居合わせただけで,何の責任もない.②トロッコの運転手は何もしなければ自らの手で5人を殺してしまう.しかし,傍観者は何もしなくても自分では何もしない.

しかしながら,このような場合,普通の人ならば状況に介入して,責任を持とうとするだろう.たしかに,このように責任を持つことは,リスクをおかすことになるわけだが.たとえば,5人がマフィアで1人が普通の市民であった場合,判断は微妙になってくる.

トムソンの直観:傍観者はこのケースで介入することは許される.道徳が介入を要求するかどうかまではわからない.しかし,少なくとも介入は許容されるはず.であるならば,フットの提案に問題が生じる.もし傍観者が介入を始めたならば,彼はトロッコの行く先を変えるわけだから,彼は作業員を殺すことになる.一方で,もし介入しないで5人が死んでしまったとしても,傍観者が積極的に殺したわけではなく,5人を死ぬに任せただけである.ということは,彼の選択は,1人を殺すか,5人を死ぬにまかせるかである.トムソンはこの場合は許容されると考えている.しかしフットが提示した外科医の事例で働く原理によると,これは許されない事例ということになる.つまり,傍観者は介入することが許されないということになる(1398).

外科医の事例に少し変化を与えてみる.

外科医の失敗の事例:5人の患者が病気を持ったのは,外科医の不手際によるものだった.相当疲れていた外科医は,ある日,病院に来ていた5人に誤った薬を処方してしまう.その結果,5人は病気を持つにいたり,死の直前まで病気が進行してしまった.つまり,もし5人が死んでしまった場合,外科医が5人を殺したことになってしまう.

問い:健康な1人を殺して殺してしまうはずの5人を助けるべきか?

トムソンの答え:もちろん,5人を殺すことは許されない.しかしそうなると,1人を殺すことよりも5人を殺すことの方が悪い,という原理にも疑義が向けられることになってしまう.どう考えればよいのか?(1400)

①原理は正しい,この場合,外科医は1人を殺すべき.

②原理はこの場合外科医は1人を殺すべきということを含まない.

トムソンは②を選択.原理は行為の価値について述べているが,このことは,何をするべきかという規範的な含みを持たない(ということ??)

トムソンは原理(5人を殺すことは1人を殺すことよりも悪い)に次のような修正を加える.

もしある人が,今,ここで,5人を殺すために何かをすることと,今,ここで,1人を殺すために何かをすることを選ばなければならないとすると,この人は後者を選ぶべきである.(1400)

トムソンはこの原理は外科医の失敗の事例(やその強化版の悪い外科医の事例)において外科医は手術をすることを命じないと考えている.というのも,この原理は今,ここで,の話であり,外科医の選択は過去の出来事(誤って,もしくは意図的に,医療ミスを起こして死因を作った)と,現在の出来事(健康な人は殺すこと)であるから.

トムソンがトロッコ問題(the trolley problem)と呼ぶのは,なぜ傍観者は5人を助けるために介入することは許されるが,一方で,外科医は1人を殺すことが許されないのか,という問い(1401).

カント的な考え:人間性を持つ存在を単なる手段として扱ってはならない.

この考えから行くと,外科医の事例では若者は5人を助けるために単なる手段とされている.しかし,傍観者の事例では,犠牲になる1人は手段となっているわけではない.

 たしかにこの答えはある程度の確からしさを持つかもしれない.しかしトムソンは,人を単に手段として扱うとはどういうことか,人を単に手段として使うとはどういうことか,そして,なぜそれは悪いことなのか,答えることは簡単ではないと考えている.

たしかに,傍観者の事例と外科医の事例を比較してみると,犠牲になる1人の使われ方が違うということがわかる.このことから,1人の使われ方という観点から考えることは,基本的には正しいとトムソンは考える.しかしこれだけでは過度に単純化された答えしたでないとトムソンは主張する.

ループ事例:傍観者の事例では,5人がいる線路と1人がいる線路はその先つながっており,交わることはなかった.しかし,この事例では,5人がいる線路と1人がいる線路は辿っていくとつながっており,円状のなっている.5人が轢かれた場合,それによって列車はとまる.だから1人は助かる.一方で,1人の方は恰幅がよく,恰幅がよいからそちらに列車がいったら,列車は1人を殺してとまる(1402-3).

トムソンの直観:多少のためらいはあるかもしれないが,この場合でも,1人を犠牲にして5人を助けることは許容される.

ただ,この事例では,恰幅のよい人物は使われているような気がする.それによって5人は救われているわけだから.

→このような事例を考えると,カント的な考えを使ってこれらの事例を解決することは困難であるということになる.

傍観者の事例と外科医の事例の違い:傍観者の事例は,既に5人にとって脅威となっていたものを1人にとっての脅威に変えるものだった.外科医の事例はこのような特徴はない.また,傍観者の行為は犠牲になる1人のどのような権利の侵害も含んでいない(the bystander does not do that by means which themselves constitute an infringement of any right of the one's).(1403)

このような仕方で,トムソンは「権利」に訴えて,この問題を解決しようと試みる.ちなみに,トムソンは他者を単に手段として扱うことの悪さを説明するためにも,権利に訴えざるをえないと考えている(1404f).

ドゥオーキンの考えの検討:権利は功利よりも常に優る(Rights trump utilities).もしある権利の侵害があった場合,その権利の侵害は,たとえどのような功利があったとしても,許容されない.

ここから出てくる解決:傍観者の事例において,1人を犠牲にすることが許されるのは,それによって5人の幸福が増進され,かつ,1人の権利は侵害されていない,から.

しかし,このような方針もそれほど簡単ではない.傍観者の事例で本当に犠牲になる1人の権利を侵害していないのだろうか.権利が侵害されないとはどういうことか.

権利の放棄に訴える方法(1405):労働者は線路上で働くことは危険であると知っていたはず.それにも関わらず働くという選択を行ったことは,彼らがここで関係する権利を放棄したということ.だから,1人が犠牲になる場面でも,権利の侵害はない.

トムソンはこのような答えはあまり魅力的ではないと考える.労働者は轢かれる可能性を受け入れるというような同意は与えていないはず.

トムソンの考察:傍観者は犠牲になる1人の権利(生存権,right to life)を侵害しているし,彼に対しては悪いことをしている.しかし,これは許容されるものだ,と考えることができるかもしれない.しかしながら,これは道徳が要求することではない.われわれがこの事例でかなりためらいを感じるのは,この事例は道徳的に許容されるものだが,やはり犠牲になる1人の権利を侵害するものであり,かつ,われわれの行為はこの1人に対しては悪い行いであるから(1406).→この答えはBernard WilliamsやRuth Marcusによって提案されているもの.

傍観者の事例で1人を犠牲にすることが許されるのは,1人を犠牲にすることで5人の福利を増進することができるからだけではない.彼は,何もしなければ避けることができない死の数を最小化することができた(1人を犠牲にすることで).つまり,もともとあった脅威の被害を最小限にとどめたということ.彼は何か新たな脅威を自ら積極的に作り出したわけではない.この要素が重要.(1408)

→このことをトムソンは分配的免除(distributive exemption)と呼んでいる.

⇒ここから出てくるトムソンの結論:われわれは次のような場合,既に5人を脅威にさらしているものをそのままにしなければならないという道徳的義務を課せられてはいない,即ち,その脅威を1人に向けられるものに変えることができ,それによってその1人の権利を侵害することがないような場合.(1409)

太った男の事例:橋の上から太った男を突き落せば,暴走する列車を止めることができる.

この事例については多くの人が道徳的に認められないと言う.なぜか?トムソンは,この事例は太った男の権利を侵害するものであるから多くの人は認められないと考えているという.