Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Pekka Väyrynen (2008), Usable Moral Principles in Vojko Strahovnik, Matjaz Potrc & Mark Norris Lance (eds.), Challenging Moral Particularism. Routledge

個別主義:道徳原理に従うべきではない、それは、道徳原理はわれわれが正しい行為を行うに際して悪影響を及ぼすから.

Väyrynenはこの個別主義的な主張に対して、彼が提案するヘッジがきいている原理は、われわれの行為を正しく指導する道徳原理であると主張する。

個別主義のための主張:

①理由の全体論からの議論:ある事実が果たす理由の役割は文脈によって異なる。このことを踏まえなければ、われわれは誤った判断をすることになる(Dancy 1993, p. 64)。

→この議論は無視できる。というのも、たとえ理由の全体論が真であったとしても、成り立っている道徳原理があると考えられるから。

②たとえ道徳的事実や道徳についての区別を明確にするために道徳原理が必要であったとしても、われわれが道徳についての決断を行うに際しては、道徳原理は不必要。

→この戦略も難しい。道徳原理は道徳についてのコミュニケーションに際して、ある程度の役割を果たすように思える。

③道徳原理に頼って道徳的な決定を下すことは、行為者が必要な敏感性を発揮することを妨げ、個々の事例について十分な検討を行うことを妨げる。

道徳原理が果たすべき適切な指導とは?→正しい行為を、正しい理由によって、行うための信頼のおける方法を提供すること。

信頼性?→その原理を使用する人の環境にあまり依存しない。ある程度の異なる可能世界において信頼のおけるものである必要がある(78)。ある世界や状況においてのみ信頼性のおけるような原理では、ここで問われているような信頼性は持たないということになる(「まず先に発砲せよ、そしてその後に質問をしろ」という原理など)。

正しい理由のため?→道徳には関係のない理由で行為することによって(罰をさけるため)、道徳的に正しい行いを行うことができるかもしれないが、それではこの原理は正しい行いをするために信頼のおけるものとはならない。その原理を受け入れることで、正しい理由で行為することが可能となるような原理でなければならない。

良心を持った人のみ?→道徳的に振舞おうという意思がない人にとっては役に立たないものであっても問題はない。ある程度の認知能力を持つものにとって有益であればよい。つまり、ある程度、込み入った原理であっても、正しくそれを使おうとする行為者にとってのみ、有益であればよい。

実践的思考への影響?→その原理が直接的に、もしくは間接的に、道徳的思考によい影響を与える。ここで言うところの良いとは、もちろん、道徳的に良い行いを行うために、という意味。カント的な定言名法は、それが思考されることにより、道徳的思考によい影響が与えられるものなのかもしれない。

一般主義のための論証:

(G1)もし道徳原理が正しく行為するための、信頼性のおける、そして現実的な、貢献をすることができるのであれば、一般主義は適切な道徳的指導を与えることができる。

(G2)道徳的に正しく行為しようとする行為者にとって、もしその行為者が真である道徳原理を受け入れることで、正しい道徳的理由への反応性を涵養することができるのであれば、道徳原理はその行為者が正しく行為するための貢献をすることになる。

(G3)どのような道徳的に正しく行為しようとする行為者にとっても、その行為者が真である道徳原理を受け入れることで、正しい道徳的理由への反応性(responsiveness)を涵養することができる。

(C1)すなわち、どのような(道徳的な良心を持つ)行為者であっても、その行為者が原理を受け入れることが正しい行為をすることに貢献するような方法が存在する(方法の内容は行為者によって異なる可能性があるが)。

(C2)すなわち、一般主義は適切な道徳的指導を提供することができる。

(G1)はこの論文の前提。(G2)と(G3)が擁護できるか否かが問題となる。

(G3)に関して:道徳原理の受け入れと理由への反応性

道徳的理由への反応性とは、理由への反応性一般からみた、特殊な事例。理由への反応性を持つことは、その理由に基づいて、何らかの信念や欲求、意図や経験を持つこと。このような理由への反応性は、様々な要因によって阻害されることがあるもの。バイアス、疲れ、注意散漫、うつ症状、能力の低下、など。

ここで議論されている傾向性は、de re読みであるべきで、de dicto読みであるべきではない。

道徳原理の受け入れの強度に度合いがあることと同様に、理由への反応度にも度合いがある。

道徳原理の受け入れによって、どのような反応度を得ることができるのか?

①道徳原理の受け入れによって、ある特定の道徳的信念を得ることになる。嘘をつくことは基本的には悪い、という原理を受けれいることは、嘘をつくという行為を認識した場合にその行為は悪いものだと判断すること。

②道徳的信念を持ち、そこから、その道徳的信念に沿った道徳的決定を下すようになる。嘘の原理を受けれいるということは、様々な状況において、嘘をつかないようにしようという決定を下すようになる。

③道徳的信念を持ち、そこから道徳的決定を下し、さらに、それに沿って実際に行為し、関係する動機的な、情的な要素(後悔の念など)も発動される。

道徳原理はある行為を正しいものにしたり悪いものにしたりする特徴を同定するものであるから、それらは行為者が何らかの考慮を道徳的理由とみなすことを保障する。このことから、①の考えに従うと、道徳原理を受け入れることは、道徳的理由に気がつく傾向性を持つということになる。他の2つの考えも、この道徳的理由への気づきを含んだものということになる。つまり、上で挙げた解釈のどれをとっても、行為者が道徳原理を受け入れることは、道徳的理由への反応度を獲得するということになる。(G3)は擁護されることになる。

道徳原理が行為者の実践推論において指導的な役割を果たすために必要なものは何かという問いに関する2つの問い

(1)強い考え:その原理に従いたいという欲求から道徳的決定が下され、道徳的決定を下す際に命題的態度の内容として明示的に表象されること(H.M. Smith 1988, pp. 90-92)

→この考えは強すぎる。道徳原理を受け入れることによって行為者が動機づけられるべきなのは、その原理が示す道徳的理由に関して気がつくことができるということ。

(2)弱い考え:明示的な推論を行う際に使うことができること。明示的な形で表象される必要はない。つまり、ある原理に基づいて行為することは、その原理について意識的な反省がなされていなくてもできるということ(O'Neil 1996, pp. 86-87, Garfield 2000, p. 191)。

→弱い考えの方が正当に見えるし、ここまでの議論において必要なのは弱い考え。

道徳原理の受け入れと動機の関係について:(G3)は道徳原理の受け入れは動機づけに十分であるという考えを想定してはいない。というのも、動機付けに十分であるという条件が必要かどうかは、そもそも道徳において動機付けをどれほど深刻にとらえるかによるから。

(G2)について:

考えられる反論:どのような原理であっても、その受け入れによって道徳的理由への反応性を誤ったかたちで涵養してしまうのではないか。(個別主義者の問題意識)

→たしかに、道徳的理由への反応性を誤った形で涵養する原理はある。それでは、次の問いは、全ての原理がそういうものであるかということ。もしそうでない原理があるのであれば、この問題は退けることができる。Väyrynenはそのような原理として「ヘッジされた原理」を提案する。

[One plausible assumption]: in ethics, when we judge C to be a reason for an act's being right or wrong, we should also be able to explain why C is the kind of reason it is. 

Substantive normative theories tend to provide such an explanatory work.

Ex: Concerning the wrongness of causing pain; it produces intrisically bad value, makes the victim worse off, it fails to exhibit respect which the victim merits, or the prohibition of causing pain cannot be reasonably rejected (p. 86)

Vayrynen calls this feature normative basis (bases). He thinks normative bases also provide an explanation of why certain feature of a situation functions as a reason in one context but not in another context.(p. 86)

Then, he argues a principle which has the following hedged structure can be compatible with the holism of reasons:

[HP] For any x, if x is F, then x is M in virtue of being F, provided that x instantiates the designated relation for F and M. (p. 87) 

F is a particular feature of a situation (such as causing pain) while M is supposed to be a thin moral concept. 

Then, the real question we need to ask is: by accepting such hedged moral principles, can morally committed agents be morally reliable persons? (namely, are hedged moral principles usable/useful moral principles?) 

Vayrynen says that by comitting to a hedged moral principle, one not only avoids particular wrong but can care more general moral ideal such as respecting other people (p. 88). Vayrynen explicitly says that even if one accepts a particular moral rule 'causing pain is wrong' out of a direct concern for not causing pain to others, such an agent would be a defective moral agent (p. 88). 

[??] Not sure why Vayrynen is entitled to say that such an agent is morally defective ... He says even if that agent believes that there is no normative basis which explains the wrongness of causing pain, the agent would be morally defective. 

Accepting a hedged moral principle requires grasping the relevant designated relations, and such grasping shapes one's responsiveness to moral reason (so the defence of (G2)). (p. 89)

Accepting a principle includes a ommitment to a following counterfactual: I wouldn't take x's being F as a reason for x's being M if x didn't instantiate the designated relation for F and M. (p. 89) 

An agent who does not have a full grasp of the principle can be still reliable because the agent can reliably pick up on morally relevant features in each context [an example of such a weak grasp of the hedged moral principle may be that morally relevant things are related somehow to wellbeing] (p.90). 

Hedged moral principles are different from more concrete rules such as 'killing is wrong' 'causing pain is wrong'. Holding the latter principles may lead us to systematic errors (p. 91). 

Accepting a principle goes beyond graspting an appropriate range of moral principles, and this is why accepting a principle enhances one's moral sensitivity to reasons (p. 93). 

A possible particularist response: the particularist strategy is better than the generalist strategy outlines here (the original claim was that generalism is wrong because by relying on moral principles we become morally unreliable agents) (pp. 94-95)

Vayrynen's response (or an independent objection) to particularism: the particularist does not provide any material (substantial?) explanation of how particularist guidance affects the agent's psychological make-up and how such effects contribute to the reliability of the strategy (p. 95). 

On this point, Dancy's narrativist epistemology is silent (p. 95). 

Vayrynen also discusses another argument against generalism which appeals to empirical data, a classic one is the one by Dworkin. Vayrynen's response is this: even if our moral judgement is driven by prototypes, schemas, or exemplars (not genral moral principles), this empirical finding does not undermine the generalist strategy which employs the idea of hedged moral principles. That is because the acceptance of hedged moral principles influences what sort of protopypes, schemas, or exemplars are relevant. 

Finally, Vayrynen attempts to respond to two challenges Holly-Smith raises against generalism.