Kamonoha World

日々の研究や日常の一部、読んだもののノート的なものです。メタ倫理学が中心です。

Scott Shapiro. The "Hart-Dworkin" Debate: A Short Guide for the Perplexed.

Shapiroが目指すこと:Hart-Dworkin論争が何についての論争なのか、明確にすること。この論争は法が規則と共に原理も含むか否かについての論争なのか。裁判官がハードケースにおいては自由に判決を決めてもよいということなのか。アメリカにおいて法律をどのように解釈するべきかという問題なのか。概念的な法理学の可能性についての論争か。

Dworkinの基本的なスタンス:合法性は社会的事実のみによっては決まらない、道徳的事実にも依拠している。これが、Hart流の法実証主義と異なるところ。

Dworkinは"The Models of Rules I"の中でHartの法実証主義に対して批判するが、Dworkinによる法実証主義の理解は以下のような3つのテーゼからなっている。

≪Dworkinの法実証主義理解( "The Model of Rules I"の時点)≫

①ある集団(community)の法を同定するために必要なことは(つまりその集団で法でない規則(rule)から区別するために必要なことは)、その法の内容によるテストではなく、その法が出来た由来(pedigree)であったり、その法がどのように採択され、発達してきたか、という社会的事実によるテストである。

②もしそのような法によって解決することができない事例があった場合、その事例はその法によって裁くことができないということであるから、裁判官によって自由な判決を下すしかない。

③ある人が法的な責務を持つとは、ある法的な規則がその人に何かをするように要求している(require)ということである。そのような法的な規則がなければ、法的な責務といったものは存在しない。

Dworkinはハードケースに訴えて、裁判官は規則に訴えるのではなくどの原理がそれぞれの場面で採用されるべきなのか検討しなければならない場面があると主張する。一方で、法実証主義はこのようなハードケースは法によっては裁けないという含みを持つ。この含みは受け入れられない。ハードケースであっても明らかに(原理の裁量を通じた)法の規範が課せられているように思えるから。

*Dworkinのポイントは、ハードケースにおいて裁判官は法以外のものに訴えて判断を下す必要がないという点。

Dworkinへの典型的な反論:Hartに明らかに見込みのない主張を帰属している、即ち、法は規則からだけで成り立っており、原理は含まない、という主張。

Dworkinの擁護:たしかにHartはこのようなことは言っていないが、しかしながら、Hartがハードケースは法によって判断をすることができないと言っていることから、原理が法の一部ではないと考えていると解釈することは妥当なことであるはず。

Hartの反論:社会的行為によって同定される規則によって全てのケースに判決を与えることはできない。だから、ハードケースにおいては裁判官は法のみによる判断を下すことはできない。

→このことから、論争が法が原理を含むか否かということではないことがわかる。また、裁判官の自由な裁量に関するものでもないことがわかる。この問題は結果的に両者を分けるものであり、論争において問題になっていること自体ではない。

Dworkin:ハードケースにおいて自由な最良がないのは、そのようなケースでも法が持つ規範があり、その規範は過去の社会的事実に依拠しない場合もあるから。それらが規範を持つのはそれが(政治)道徳的な要素を持つから。

→つまり、Hart-Dworkin論争の真の主題は、2つの異なる法に関するモデルについて。法は社会的に権威があるものとされているものでしかないのか?それとも、道徳的な権威を持つものなのか?法を決めるものは社会的事実なのか、それとも道徳的事実なのか?

Hart側からの2つの応答:

*Hart自身は実際には何も返答していない。他の論者がHart的な法実証主義を代表して行った。

①Dworkinの法実証主義の特徴づけを受け入れる。その上で、Dworkinが言うところの法的な原理が法の一部ではないと主張する。彼らは、法的な規範はそれが道徳的であるから有効なものになることはないと言う。Dworkinが言うところの法的規範は、社会的な血統を持っているか、もしくは法ではない、ということになる。

②Dworkinの法実証主義の特徴づけを受け入れない。その上で、Dworkinが言うところの法的な原理が法の一部だという主張は受け入れる。それらが道徳的な内容によって有効であることも認める。このような説明がどうして法実証主義の精神にかなうものなのか、説明するというもの。

①はhard (exclusive) positivismなどと言われる。Joseph Razなど。

②はsoft (inclusive) positivismなどと言われる。Philip Soper, David Lyons, Jules Coleman, Wilfred Waluchowなど。

Dworkinの次の論証(Law's Empireにおける議論):法に携わる人間がしばしば遭遇する意見の不一致についての議論。そして、この意見の不一致の存在を説明するには、それが道徳についての意見の不一致であると説明するしかない。

法命題:「東京では夕方以降車の運転をすることは法的に認められていない」という命題は偽。法命題は真偽が問える。

法の根拠:法命題がなぜ有効なのか。日本においては、そのことに関係する法案が国会の承認を得られた場合、有効。

2種類の意見の不一致:

①法の根拠が実際に得られているのか、という問い。実際に日本では夕方以降の車の運転についての法案が通っているのか否かという問い。これをDworkinは「経験的不同意」と呼ぶ。

②法の根拠が正当なものであるかという問い。たしかに日本の国会の承認を通ったことについては同意が得られるかもしれない。しかし、そもそも日本の国会が法を作る権威を持つものか、意見が分かれる可能性はある。Dworkinによると、このレベルでの意見の不一致は法についての「理論的不同意(theoretical disagreement about the law)」と呼ばれる。

Dworkinの主張:理論的不同意について法実証主義は説明を与えることができない。

plain fact view of law:法の根拠は法曹集団の間のコンセンサスによって決まる。そのコンセンサスは単純な歴史的事実である。つまり、過去にどのような法的判断が下されたのかに依拠する。

このような考えによっては理論的不同意は説明することができない。なぜならば、そもそも法曹集団の間にコンセンサスがあるはずであり、意見の不一致など起こらないはずだから(彼らの意見の不一致は経験的なものでしかないはずだから)。

Dworkin:実際には理論的不同意に関する法廷闘争がある。テネシー州のダム建設についてのケース。このケースで争われたのは、ダム建設の違法性を訴えて人たちが依拠した法が、ダム建設が認められた後にできた法に訴えたこと。つまり、法そのものに拘束力があるかどうかということが問われている。実際に、ある判決では法はダム建設の差し止めを要求する可能性があるとし、もう一方の判決ではそのようなことをこの法律は要求しないとした。

Dworkinの解釈:このようなケースで行われているのは、道徳がそれぞれの判断を正当化するか否かということ。つまり、法についての理論的不同意は、真正な道徳的不同意であると理解することができるということ。

Dworkinの2つの議論の比較:両者ともに、法実証主義が社会的血統についての主張を持つと想定している。そして、どちらもハードケースを説明できないと主張する。さらに、両者ともにハードケースの説明のためには道徳に訴える必要があるとする。

両者の違い:ハードケースがなぜハードケースになっているのか、その性質が違う。前者は、法の根拠については同意があるが、それぞれのケースでこの根拠が成り立っているのか、意見が分かれる、というもの(Henningsenの事例)。一方で、後者は法の根拠について意見が分かれているというものだった。

Henningsen事例について、法実証主義は応答することができる(ハード実証主義・法的に法以外の規範に訴えることが要求されている、ソフト実証主義・道徳的な要素が法の根拠となるということが社会的に受け入れられている、など)。

だが、TVA(ダムの事例)については法実証主義は簡単に応じることができない。これは法の根拠についての問い。法の根拠がどこにあるのか、社会的なconventionであるとする法実証主義は、この問いを説明することができない。

Shapiro:この2つの目の反論の方がより強力であるにも関わらず、こちらの問いについてはあまり議論されていない。これは皮肉な結果。もう一方の問いについては相当な分量の本や論文があるのに。

Leiterの主張:Hart-Dworkin論争の勝者はHart。この論争は既に終わったもの。

Shapiro:Dworkinの初期の主張に依拠すればその通り。法実証主義者はDworkinが挙げるHard casesについて説明を加えることができる。しかし、Dworkinの後期の議論はどちらの法実証主義(soft or hard)も答えることが困難。